今まで、人生行路の第一段階、第二段階と書いてきました。第一段階は、私たちが罪に支配されて生きているということでした。第二段階は、私たちが罪の支配から解放されることを目指して生きるということでした。第三段階は、終わりを見て生きる、ということです。
終わりには、二つの終わりがあります。一つは個人の人生の終わり、つまり死です。今ひとつは、世界の終末です。ここでは、世界の終末を考えます。聖書が終末に関して教えていることがあります。
- イエス・キリストの再臨
- 死人の復活
- 最後の審判
- 神の国の実現
終末が到来するなら、それに対する備えが必要となります。特に最後の審判は、人が与えられた人生においてどのように生きたのかが問われます。命を与えてくださった神さまに対して、神の御心にそって生きたかどうかが問われるというのです。だから今どう生きるかは、最後の審判を意識することが大切となります。
聖書によれば、最後の審判により、人は永遠の命に迎えられるか、永遠の滅びの中におかれるのか分かれるとあります。
ヨハネ 3:16
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
現代人からすれば、終末の到来、最後の審判などは、信じがたいことです。信じがたいからといって、それが偽りということにはなりません。自分が信じられることが真実であり、信じられないことは真実ではないとは言えません。だから賢明な人は、終末があると考えて生きることを選びます。
キリスト者は、終末の到来を受けとめ、自分の生き方を考えます。終末の到来は、あなたの生き方はそれでいいの?と私たちに問いかける役目を持っています。自分の好きなように生きるのではなく、神の御心にそって生きるように私たちに促すのが終末の教えとなります。
私が終末を考えるとき思い起こす聖書の箇所があります。それを紹介します。
フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。