最後の審判を思うとき、すぐに心に浮かぶのは「こころを高くあげよう」(讃美歌第二篇1番)という讃美歌にある歌詞です。
おわりの日がきたなら
さばきの座を見あげて
わがちからのかぎりに
こころを高くあげよう
どうしてこの讃美歌が、そしてこの歌詞が心に留まるようになったのか、その経緯はもう覚えていません。覚えていませんが「こころを高くあげよう」という言葉がすてきな振る舞いに感じられました。それでこころを高くあげるような信仰者になりたいと願ったのだと思います。
そしてそれは福音を喜び誇る思いにつながっていったと思います。人によっては、最後の審判という言葉を聞いて、恐れを抱くかもしれません。審判を受けて自分はどうなるのか不安に感じます。
しかし主イエスを信じる者を神は義とされます。
ローマ 3:22
すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。ローマ 3:24
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
自分の努力によるのではなく、キリスト者は神の恵みによって義とされます。キリスト者は神の目に義(ただ)しい人です。恵みによって義とされました。この神の恵みを喜び、誇ります。
ローマ 5:8
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。
恵みによって義としてくださる神の愛を知ります。だから神の審判を恐れません。むしろ私を救いへ入れるとの神の最終判断が下されることを喜びます。それゆえ、こころを高くあげます。