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隠退牧師 holala によるブログ

詩編139編を読んで

 今週は詩篇139編を黙想しています。この詩篇には印象に残る言葉があり、親しみを覚えています。きちんと読んで黙想するのは今回が初めてです。こんな出だしです。

詩編139編
主よ、あなたはわたしを究め/わたしを知っておられる。座るのも立つのも知り/遠くからわたしの計らいを悟っておられる。
歩くのも伏すのも見分け/わたしの道にことごとく通じておられる。
わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに/主よ、あなたはすべてを知っておられる。

 一言で言えば、神は、私のことを何でもご存じであると書かれています。自分の立ち居振る舞い、自分が考えていることみな神はご存じです。神から逃れて、神から離れて、こっそりひとりの世界に逃れることもできないと語られます。

 神は、私のことをご存じで私を導いてくださる、これは感謝なことです。でもたまには、神から離れて、ひとりで過ごしたいと思うほど、この詩人は強烈に、神は私のことをご存じですと語ります。

 「人には誰にも知られたくない秘密が一つや二つはあるものだ」という台詞は、ドラマを見ていると聞くことのある言葉です。自分は秘密にしているつもりでも、神はご存じと考えると、複雑な気持ちになります。神に対しても秘密にしていることが私たちにはあると思います。秘密にしていることは、祈りにおいて、神に話すことはありません。

 私たちの心には、神に対する疑い、神に対するひそかな恨みや怒り、といったものがあるのではないかと思います。祈っても願い通りにならなかったり、思いがけない出来事に直面しての嘆き、悲しみ、苦悩、どうしてこんな目に遭うのかと憤り、なぜ神はこのような目に遭わせるのか、と思うことがあります。自分の生まれ育った環境になじめなかったり、もっと別な状況に生まれたかったのにと自分の運命を呪いたくなるようなことがあります。

 神を信じて祈る生活をするとき、上に述べたようなことを心の中に封印してしまうということがあることを思います。神に対して否定的な思いを持ってはいけないという配慮が働きます。

 人生を長く生きてきた身として、この詩篇を読んだことをきっかけに、封印を解いて、神さまに祈ってもよいのではないかと思わされました。

 

何を考えているのか 春日大社参道で