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隠退牧師 holala によるブログ

神の愛を知る(5)十字架の叫びから知る愛

マルコ 15:33~34
昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

 神であられた方が人となり、救い主としての活動を始めました。しかし宗教的権威者から疎(うと)まれ、ついには十字架で処刑されることとなりました。救い主として世に来られたのに、人々は「十字架につけよ」と叫び、御子を十字架に追いやりました。さらに御子イエスは弟子たちにも見捨てられました。そして最後には神にも、父なる神にも見捨てられました。

 御子が十字架で処刑されることは御父の計画でした。十字架で処刑されたことは御子の活動の失敗、挫折ではありません。御父の計画が完全に実行されたのです。その結果は思いもよらないものでした。救い主である御子は十字架の上で、大変なことを体験したのです。それは叫びとなって現れずにはおれませんでした。

「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。

 御子の十字架の死は神の計画でした。なぜ十字架の死なのでしょうか。

 神は人間を愛し、人を創造しました。人は神との交わりに生きるように造られました。しかし人は神に背き、自分の思いと自分の考えによって生きるようになりました。偽物の神を造ってはこれを崇め、まことの神を見捨てました。その結果、人は罪を犯し、人間の世界は混乱に満ちるようになりました。それは現代も同じです。神は義なる神であり、罪を放置することはできません。罪に対する裁きを行います。この裁きから救われる人は一人もおりません。

 愛の神は、罪を犯す人間をなお愛し、ご自身との交わりに招かれます。神は義なる神、正しい神ですから、罪を犯し続ける人間を交わりの相手にすることはできません。そこで神は御子を十字架に送り、そこで人間の罪に対する裁きを実施しました。人間の罪に対する神の裁きを御子は十字架の上で一身に負ったのです。御子が人間に代わり、神の裁きを受けました。

 十字架において、罪人を招くという神の愛が全うされ、罪を裁くという神の義が全うされました。御子を信じる人を神は御自分との交わりに招かれます。
 御子は人類の罪を背負い、神の裁きを受けました。つまり御子は神に見捨てられました。神に見捨てられるという事態がどのようなものか想像できませんが、御子は神に見捨てられる体験をしたのです。この宇宙において、絶望の極みとなるものは神に見捨てられることだと私は考えます。

 神である御子が神であることにこだわらずに人となりました。救い主として世においでになったのに、人々から疎まれ、十字架の処刑に追い込まれました。挙げ句の果てに神に見捨てられました。なぜ、このような歩みを御子はされたのでしょうか。答えはただ一つ。御子も人間を愛し、人間の救いを願ったからです。さらに言えば、御子も人間との交わりを願われたからです。

エフェソ 1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 御父なる神さまの計画は、私たち人間を御自分の前で聖なる者、汚れのない者にすることでした。イエス・キリストを信じる私たちを、神は神の子としてくださいました。キリスト者は神を天の父と仰ぎ、神との交わりに生きるように招かれた存在です。このために御子は御自分の命を犠牲にされ、十字架の上でとてつもない絶望を味わいました。ひとえに私たちに対する愛のゆえです。

オオイヌノフグリ 春の到来を告げる花