私にはすべてのキリスト者が、自分は新しく生まれた者であるとの信仰に生きて欲しいという願いがあります。それは言い換えると神の子にされていると信じることにつながります。キリスト者が神を天の父と仰ぎ、神の子として生きて欲しいです。
それを信じることを困難にさせるのが、実感です。自分が信仰を得て新しい人に生まれたという実感がないので、信じることにためらいを感じるのです。自分の心の有り様を思うとき、神の子にされているとは到底思えないのです。信仰を持つ以前の自分と今の自分がそんなに変わっているようにも思えないし、自分が新生したとは信じられない、そういうことがあります。
そこで私は思います。キリスト者は神を信じて生きていますが、神を実感して生きているのでしょうか。神を実感したから神を信じたし、実感しているから信仰を続けているのでしょうか。
他の信仰者のことは分かりませんが、私自身は、神を実感したから信仰に入ったわけではありません。神を実感しているから信仰生活をしているわけではありません。神の導きにより、神を信じる歩みを始めました。多くのキリスト者がそうなのではないかと思います。時には、神はおられるんだと思う出来事を経験します。基本的に神を信じるので、実感に基づくものではなく、ただ信じます。信じる根拠を挙げるなら、信じるように導かれているとしか言いようがありません。
これと同じように、新しく生まれたことも実感したから信じるのではなく、私たちは信じるように導かれているのではないかと考えます。神さまは、聖書の言葉を通して、信じるように導かれます。
テトスへの手紙 3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。コリント二 5:17
だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。
キリスト者は聖書を神の言葉と信じます。