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隠退牧師 holala によるブログ

生きておられるイエス(2)御言葉によって生きる

 イエスの復活を信じるとは、主イエスが生きておられることを信じることです。主イエスが生きておられることと私の信仰生活はどのような関係があるのでしょうか。主イエスが生きておられる現実を私はどのように生きているのでしょうか。さらに言えば、私のうちに主は生きておられるとどうしたら言えるのでしょうか。

 正直に言うと、主が今も生きておられると信じていましたが、自分との関わりで考えることはしてきませんでした。漠然と主イエスはわたしと共にいてくださると信じるぐらいでした。

 しかしこの時期、主イエスの復活を語る聖書を読むとき、あらためて考えるのです。主イエスが生きておられる現実を私はどのように生きているのか、生きていると言えるのか。

 私はこの問いに答えたいと考えました。そして思いめぐらし、私は答えを得ました。

 1:14 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。

 言が肉となる、つまり言が人となられたのが主イエスです。私はある時から、聖書の言葉を土台にして物事を考えるように導かれました。自分が学んだこと、経験したことをもとに考えるのではなく、聖書の言葉、神の言葉を第一にして考えるようにしました。

 私の生きる基盤は、聖書、神の言葉です。私が神の言葉によって生きているとは、主イエスが私の内におられ、私の内に生きておられるということです。私が神の言葉を土台にして生きるとは、私が主イエスを土台にして生きていること、つまり主イエスが私のうちに生きているということです。

 信仰者としての私の歩みを見て、人がどのように言うのかは知りません。しかし私は、このことは主が私のうちに生きておられることのしるしだと告白します。そして主イエスが私にうちに生きておられると自覚して信仰の歩みを積み重ねたいと思います。

 主が私のうちに生きておられるとの告白は大胆な告白で傲慢に見えるかもしれません。人はこのような告白をすることにためらいを覚えます。「あなたの信仰生活を見ていると、そんなのあなたの思い込みですよ、主があなたの内に生きておられるようには見えませんよ」と人は言うかも知れません。いやきっと言うでしょう。

 だから私は他者に向かってではなく、主イエスに向けてこの告白をします。この告白をしなければ、主が今生きておられることと私の信仰とは無関係になってしまいそうです。他者がどう思おうと、主は私の内に生きておられると主イエスに向かって告白し、御言葉によって生きていきます。

馬見丘陵公園