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隠退牧師 holala によるブログ

神の国と神の義

 有名な言葉です。でも「神の義を求めなさい」。これはわかりにくいです。この言葉はマタイ福音書6章に出てきます。あの思い煩うのはやめなさいという段落の最後の方に出てきます。

 何を食べようか、と命のことで思い悩むな、何を着ようか、と体のことで思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものは皆加えて与えられる、とイエスは教えられました。

 神の国、これは神のご支配を意味します。神の国を求めるとは、神のご支配があることを信じ、神のご支配の中を生きることを願うことを意味します。神に信頼することを意味します。食べ物や着る物など私たちが必要とするものを神はご存じです。神は私たちの必要を知り、必要を満たす神です。だから食べ物や着る物のことで思い悩むな、との教えは理解できます。

 そこで思います。私は果たして神の顧みに値する人間なのでしょうか。私が神に信頼しても、「あなたはわたしの顧みに値しない」と神に言われたらどうしたらいいのでしょうか。

 私が神の顧みに値するか否か、それは何によって決まるのでしょうか。実は、私たちは罪を犯してきたので、神の顧みを期待することはできません。神の顧みに値しません。しかしイエス・キリストの贖いの死を信じる者は、その信仰のゆえに義とされ、恵みとして神の交わりに入れられ、神との間に平和を得ます。神との交わりにある者の必要を神はご存じであり、必要を満たしてくださいます。

 イエスは信仰義認の教えを語りません。それを語ったのは使徒パウロでした。しかしイエスは、次のように語りました。それは信仰義認の教えと同じではないかと私は考えます。

マタイ 5:6
義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。

 神の前に義と認められる人は、神との交わりに迎えられます。義に飢え渇くとは、義とされて神との交わりに生きる者となることを切に願うと言ってよいと思います。イエスは、その人たちは満たされるとあります。神の前に義とされて神との交わりに招かれます。神との交わりにふさわしい人、その人は義である人です。

 ですから「神の義を求めなさい」とは、神との交わりに生きることを求め続けなさい、神との交わりにふさわしい人となりなさいとの意味と理解します。神との交わりに生きる人は義なる人であると教えられます。

アジサイ 馬見丘陵公園