クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

天に行く馳場(はせば)

 朝起きたときの思い。今日も消化試合か。

 消化試合とは、『リーグ制のプロスポーツで、全日程終了前に優勝チームが決定したあとに残る試合』のことと言われます。たとえばプロ野球のチームを考えます。優勝できないことは決まっています、自分のチームの順位も決まっています。それなのに全日程を終了するための試合をしなければならないのです。あまり意味のない試合をしなければならない、このような試合を消化試合と言うようです。

 老人にとって目覚めて生きる一日は、消化試合に思えることがあります。寿命のある限り一日一日を生きなければなりません。一日を生きたからと言って、特別なことは何もありません。生きなければならないから生きる。ただそれだけのことです。その一日を生きることにどんな意味があるのか。意味がなくても今日一日を生きる、それは消化試合のようです。

 一日を生きる、それは消化試合のようなものと感じる心があります。そのような思いで今朝は目覚めました。このような思いを感じる、それはありのままの自分の一面です。

 でも一日が始まり、youtube で讃美歌を聞き、聖書を読むと気持ちが変化します。最近は老いを生きることを励ます讃美歌を聞き、また歌うことが心の励みとなります。今一番聞き歌うのは讃美歌370番です。「蛍の光」のメロディーの讃美歌です。

めさめよ わが霊(たま) こころ励み
ちからの限りに いそぎ進め
いのちの冠は わがためにぞ
天にゆく馳場(はせば)に そなえらるる

 「馳場」という言葉は辞書には載っていません。「天にゆく馳場」とあるので天に向かう行程と理解することができます。

ヘブル12:1
こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか。

 天にゆく馳場はこの世において、神の国を目指して進むことと理解してよいと思います。

フィリピ 3:14
神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。

 「目標を目指して走る」も同じ意味と解釈できます。いのちの冠を目指して日々歩みます。消化試合のような変わり映えのない毎日。しかしいのちの冠を仰ぎ見て、天に向かう毎日。同じ一日ですが、二つの様相を示します。

ニガナ 大和民俗公園