ヨハネ福音書は、「罪」についてどんなことを語っているのか、ふと思い立ちヨハネ福音書を読んでみました。今回取り上げるのは、次の聖句です。
ヨハネ 16:9
罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと
私はこの発言を聞いて思うことがあります。人間が罪を犯すとき、その背後に問題点があることを。アダムとエバが神が禁じた木の実を食べた物語があります。神はアダムに語ります。
創世記 2:16~17
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。
アダムとエバは、この神の警告にもかかわらず、善悪の知識の木から実を取ったべてしまいました。木の実を取って食べたこと、ここに罪があります。神が取って食べてはいけないと言われたのにとって食べてしまったからです。
私たちは罪というと、間違ったこと、悪いことをしたことを考えます。そしてそれを悔やんだりします。でもその罪の背後に注意すべきものがあります。アダムとエバは、取って食べてはいけないと言われた木の実を食べました。彼らは食べるなと警告された神をないがしろにしたのです。私たちが罪を犯すとき、そこには神をないがしろにする私たちがいるのです。私たちが神を畏れ敬うとき、私たちは神の御心を尊重し、神の言葉に従います。私たちが罪を犯すとき、そこには神をないがしろにする心があるのです。だから罪を犯します。
神の掟を破ることは罪ですが、掟を破るときには神をないがしろにする心があります。神をないがしろにするから神の掟を破り人は罪を犯します。大事なことは、神をないがしろにする心があるということです。
イエスが38年間も病気で苦しんでいる人を癒やされたのは安息日でした(ヨハネ5章)。生まれつき盲人の目を見えるようにしたのも安息日でした。ユダヤ人たちは、安息日には仕事をしてはならないという十戒を根拠に、イエスは律法を破ったと考えました。イエスは律法を破る人間という先入観が生じ、イエスのわざを目にしても、イエスの教えを聞いても先入観のためにイエスを信じることはありませんでした。先入観によりイエスをないがしろにしたのです。
神をないがしろにする心から罪が生まれます。神に対する私たちの姿勢が非常に大事となります。神をないがしろにする心にあるのは、プライドです。自分の思い通りに生きていきたいとの思いがあります。神に従うより自分の思いを貫きたい、この思いから罪が生まれます。
罪を犯したとき、私たちは自分の心をチェックすることが大切です。罪を悔い改めるとき、それは罪とされる行いをしたことを悔やむのではなく、神を軽んじんる心のあることに気づき、これを悔い改めることが大切となります。