ヨハネ福音書は、「罪」についてどんなことを語っているのか、ふと思い立ちヨハネ福音書を読んでみました。今回取り上げるのは、次の聖句です。
ヨハネ 8:34
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。
イエスの言葉は強烈です。「はっきり言っておく」と語り、私が語ることは大事なことですよ、と前置きした上で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷」であるとの言葉です。罪を犯さない人はいませんから、人は皆、罪の奴隷であるというのです。このイエスの言葉を読む私も、あなたも罪の奴隷だというのです。
私はこのイエスの発言は強烈な発言であり、受けとめることに困惑を覚えてきました。この言葉を正面から取り組むことを避けてきました。今回は取り組むことにしました。
この発言の直前に、イエスはこう語ります。
ヨハネ 8:31~32
イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」。
良く知られた言葉です。イエスの言葉を聞いたユダヤ人は、私たちはアブラハムの子孫であり、今まで奴隷になったことはありませんと語ります。これに対する言葉が、34節の「罪を犯す者は誰でも罪の奴隷です」の言葉です。
使徒パウロは、ローマ書6章から7章にかけてイエスは私たちを罪の奴隷から解放する方であると語ります。そこではパウロは罪を擬人化し、私たちに罪を犯すように働きかける力として描きます。イエスを信じる者は、その罪の支配から解放されることを丁寧に書いています。
でもこの箇所では、罪の奴隷という言葉の意味の説明がありません。直後の36節でイエスはこう語ります。
8:36
だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。
「だから」とあります。35節を受けての「だから」です。35節は理解がむずかしいです。
8:35
奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。
この35節を受け「だから」です。論理的なつながりが必ずしも、明確ではありません。36節の「子」はイエス自身を指していて、イエスは罪の奴隷である私たちを自由にすることができると語っています。
イエスはどんな意味で、「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷」と語っているのか、思いめぐらします。
イエスは、「罪を犯すあなたは罪の奴隷です」と語っています。どう思いますか。
私のことをそんな風に呼ばないで、とこの花も叫んでいるかもしれません。
この花の名は、「へクソカズラ」。気の毒な名前です。