先週ブログに「充実した老いの日々とは」と題して自分の思いを書きました。そのブログを考えながら書いていて、最後に軌道修正のような文を書いたのですが、はっきりと自分の姿勢がおかしいことに気づきました。
充実した老いの日々を求めるということは、自分の視点からの発想であり、要するに自己実現です。老いの日々をいかに過ごすかについては、神の御国への旅路を歩むことと私は理解して、そのように歩んでいるつもりでしたが、問題が生じました。
私の頭では、理性では、老いの日々を御国への旅路と理解していますが、心はそうではなかったのです。日々の生活の満足を求めていたのです。充実を求めていたのです。
人生は一回限りのものだから充実を求めるというのは、多くの人に理解してもらえる考え方だと思います。しかし私はキリスト者として人生を神の国に向かう旅と理解します。神の国に迎えられるのにふさわしい者になる、それが生きる目的と考えます。エジプトを脱出し、自由に生きる土地を目指したイスラエルの民の旅は、キリスト者の歩みを指し示すものと私は理解しています。イスラエルの民は荒野を旅しましたが私たちはこの世をキリスト者として旅をし、神の国を目指します。
ヨハネ一 2:17
世も世にある欲も、過ぎ去って行きます。しかし、神の御心を行う人は永遠に生き続けます。
この世における充実した人生の「充実」は、過ぎ去るものと教えられます。神の国を目指す旅、それはこの世の歩みを神との交わりの中で生きることです。私の心は、まだ肉に属することを考えているようで、反省です。
