それでも老いの歩みの充実はあると信じます。問題はどんな充実を求めるか、だと思います。自分の心が願う充実は、自己実現になるので避けるべきでした。
私は信仰を得て、心に平安が宿りました。海の表面は波立っていても海の底が静かであるような、心の底にある平安です。日々の生活では色々なことが起こり、心が乱れることもありますが、心の底には、揺るがぬ平安があります。これは信仰者の心の充実ではないかと思います。神の国を目指す歩みをしていることはこの平安をもたらします。
テサロニケ一 5:16~18
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
いつも喜ぶなんて無理と人は言うに違いありません。喜ぶことができるような出来事が毎日起こるわけではないからです。キリスト者は出来事ではなく、状態を喜びます。神が共にいてくださること、つまり自分は神と共に「ある」という状態、神との交わりの中に「ある」という状態。この自分の状態が喜びとなり、いつも喜んでいることができます。神との交わりの中にあるのでいつも祈り、どんなことにも感謝できる。これも信仰者の充実です。表面的には感謝できないことがあるかもしれませんが、神はいつも導いてくださるので、どのような導きを与えてくださるのかと考えるとき、何事も感謝できると考えます。
ガラテヤ 5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。
神との交わりに生き、神の御心を大切にして生きる人は自ずと霊の実を結ぶようになります。霊の実もまた信仰者の歩みの充実を示しています。
キリスト者はみ言葉が指し示す歩みをすることによって充実を得られると教えられます。神を喜ぶことが信仰者の歩みの充実につながるのですね。私の心も定まりました。
