朝、マタイ福音書8章23~27節を読みました。
イエスと弟子たちが舟に乗っていました。すると激しい嵐が起こり、舟が波にのまれそうになります。弟子たちは舟が沈むのではないかと怖くなりました。ふと見るとイエスは寝ています。弟子たちは急いでイエスを起こし、助けを求めました。するとイエスは言います。
「なぜ怖がるのか、信仰の薄い者たちよ」(26節)。
小さな舟が突然の嵐で揺れます。水も入ってくるし、舟が沈むかも知れないと思ったら弟子たちは怖くなりました。理解できます。ところがイエスは寝ていました。嵐が起きたのを知らないで寝ていたというより、嵐が起きていますが寝ていたといってよいと思います。
イエスは、「私があなたがたと共にいるではないか。私が共にいるのに、なぜ怖がるのか」と言っているかのようです。
これを読んで私は、イエスが私に「なぜ、疑うのか」と言っているように思えました。
マタイ14章で弟子たちが、弟子たちだけで舟に乗っている場面を思い出しました。イエスが湖上を歩いて舟に近づいてきます。弟子たちは幽霊と思い、恐怖を感じます。そこでイエスは「安心しなさい、私だ」と答えました。するとペトロが「私に命令して水の上を歩いてそちらに行かせてください」と語ります。突拍子もないことをペトロは言います。でもイエスは「来なさい」と言うのです。ペトロは大胆にも水の上を歩いてイエスのもとに行きたいと願いイエスが許可したことになります。水の上を歩くなんてバカなことを考えるな、とイエスは言いません。「来なさい」と言われました。
ペトロは舟をおりて水の上を歩き出します。その時ペトロは強い風が吹いていることに気づき怖くなりました。その途端、沈みかけます。「助けてください」と叫ぶペトロにイエスは手を伸ばして言います。「信仰の薄い者よ。なぜ、疑ったのか」(14:31)と言いました。疑わない方がむずかしいと思います。
そこで私は思いめぐらしました。私の心にも「疑い」の思いが心の中に浮かんでくることがあるからです。「信仰の薄い者よ」と言われているような気がしました。
私が太陽に向かって歩けば、私の後ろに陰ができます。太陽に向かって歩く、それを信仰とすれば。後ろにできる陰、それは疑いと言うことができます。信仰には疑いが伴います。「信仰の薄い者よ」と言われないために、疑いを克服できたらと思います。でも疑いが心の中に浮かんでこないようにすることはむずかしいです。
そこで気づきが与えられました。光があるから陰ができます。光がなければ陰はできません。陰が生じるのは光があるからです。信じるから、疑いが生じます。信じなければ疑いは生じません。疑いは、悪魔がもたらすのか、私の心の頑なさ、あるいは不信仰がもたらすのか分かりませんが、疑いがあっても信じていけばいいじゃん、と思いました。疑いがわいたからと自分の信仰を責めたり恥じたりしないで、疑いを消そうとせず、疑いがあっても気にせず、信じる歩みをすればいいと教えられます。
今日は酷暑ともいうべき、暑い日でした。