マタイ 28:20
わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
この復活の主とどう関わってキリスト者は生きていくのでしょうか。復活の主は、いつもわたしと共にいると言ってくださいます。私のなすべきことは、主を思うことです。
讃美歌11番にこのような歌詞があります。
生くるも死ぬるも ただ主をおもう
ゆるがぬこころを あたえたまえ
どんな時も、たとい死の床にあっても、ただ主を思う揺るがぬ心を与えてくださいと歌います。どんな時も揺るがぬ心で主を思うのです。揺るがない心というのは、主への信頼のゆえに与えられるものと考えます。自分の信念の強さではなく、主が信頼できるから与えられる心です。
主は私のために十字架で贖いの死を遂げてくださいました。主を思うとは、主の死と復活によってどんな救いがもたらされたのか、それをいつも確認しながら歩むことです。主を思うとは、主は私を罪から解放し、清い心を私のうちに造ってくださると信じて歩むことです。主を思う、それは救いを感謝し喜びながら平安の内を歩むことです。
「私は真理である」と主は語りました。それゆえどんな時も、真理である神の言葉に立って歩む者でありたいと願います。自分がどんな状況に置かれたとしても、神の言葉を支えにして生きていけると考えます。主を思うとは、御言葉によって私を導かれる主を思うことです。主の導きを確信し、思い煩うことなく、平安の内を歩むことです。
主イエスは十字架の死に至るまで、父なる神に従順に歩まれました。神に従順に生きるという生き方を主は身をもって示されました。主を思うとは、神に従順に歩むことを志すことです。
主イエスは死者の中から復活されました。主を思うとは、私たちもいつの日か、復活し神の御国に迎えられることを信じることです
主を思うとは、私は決して独りではなく、主が共にいてくださると信じて生きることです。
主を思うとは、主が共にいてくださることを喜ぶことです。