私たちが切実に神の導きを求めるのは、分岐点に立ったときです。自分はどうしたらよいのか、どちらを選んだらいいのか、など差し迫った決断を迫られているとき、どのような決断をしたらよいのか、神の導きを求めたくなることがあります。
祈って神の導きを求めるわけですが、導きを与えられればいいですが、神の導きが何なのか、分からないこともあります。
牧師として最初に赴任したT教会に8年奉仕した後、G教会に赴任しませんか、との話があり、思案しました。T教会に留まるのか、G教会に行くのか、どちらが神の御心なのか分かりませんでした。
迷ったときは、困難が予想される方を選ぶのがよいという人がいます。これは人間の知恵だと思います。
G教会で13年奉仕したとき、K教会に赴任しませんか、との話がありました。留まるのか、新しい地に行くのか、どちらが神の御心なのだろうかと考えました。
この時には一つの確信がありました。神さまは聖書を通して導きを与えてくださるとの確信です。それで日々聖書日課に従って聖書を読み続けました。これを続けていく中で、K教会に行くのが神の御心と確信しました。ある日、使徒言行録16章を読みました。このように書かれていました。
使徒言行録 16:9~10
ここで夜、パウロは一つの幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が立って、「マケドニヤに渡ってきて、わたしたちを助けて下さい」と、彼に懇願するのであった。
パウロがこの幻を見た時、これは彼らに福音を伝えるために、神がわたしたちをお招きになったのだと確信して、わたしたちは、ただちにマケドニヤに渡って行くことにした。
ここを読んだとき、K教会に行くのが神の御心だと思い、決断しました。日々聖書に親しむ生活をしているなら、聖書を通して神さまは導きを示してくださると私は信じています。
聖書から示された道が、神の導きであるとの保証はありません。しかし私は信じて選択し、決断して歩みます。
イザヤ 30:21
あなたの耳は、背後から語られる言葉を聞く。「これが行くべき道だ、ここを歩け/右に行け、左に行け」と。
こんな風に聞こえてくればいいと思いますが、はっきり聞こえてくるのは、なんか怖いです。