激動の日々を過ごしておられる方もいると思いますが、私は平凡な毎日を過ごしています。単調な毎日を過ごしています。日々、同じようなことをして過ごしています。人間の生活って習慣の集合でもあるので、同じことを繰り返す日々を送っていることになります。
このような日々の連続する中で、果たして神の導きというものがあるのでしょうか。自分は神さまの守りの中で日々過ごしており、神さまの守り、それは自分に対する神さまの導きであると言われる方もいると思います。
神さまは、キリスト者一人一人に使命を与えておられると信じます。信仰者として老いを生きる、これは今の私の使命です。人それぞれ置かれた状況は違いますが、いかに感謝と喜びをもって、信仰者として老いを生きていくのか、課題です。自分の課題を意識して聖書を読み思いめぐらすとき、こうしたらいいんじゃない、ああしたらいいんじゃない、との示唆を受けることがあります。これを神の導きとして受けとめ、その示唆に従って生きる、それは神の導きに生きることだと信じます。
死を越える確かな希望を抱いて歩みたい、これは私の切実な願いです。こんな思いを抱きながら聖書を読んでいると、死を越える希望としてどんな聖句があるのか、讃美歌には死を越える希望がどのような言葉で表現されているのか、調べてみたいとの思いが生じます。そしてそれを実行する、これは神さまの導きであると私は信じます。
老いの中にあっても、何か課題を持つとき、聖書を読み思いめぐらす中で、礼拝で聞いた説教を思いめぐらす中で、神さまの導きを受けることができます。私はそう信じて信仰に生きています。
まして子育てとか、会社で仕事をしていくなら、沢山の課題がありますし、人との関係の中で、色んな思いが湧いてきて、制御できないこともあるし、醜い自分を見たり、心がざわつく日々を送ることもあると思います。聖書を読み、自分に対する語りかけとして読む中で、神さまが、こうしたらとそっとささやいてくれるのではないかと信じます。挑戦してみてください。