聖書に基づいて人間というものを考えるとき、罪との関わりを無視することができません。聖書は罪からの救いを語っているので、罪はどのように人間に働きかけ、神はどのように人間を罪から救ってくださるのか、これらを解明するために人間とはどのような存在なのかを考えることが大切です。
人間は何からできているのでしょうか。人は心(魂)と体からできていると考えることができます。心の働きとして知性、感情、意志を考えることができます。人間は考え、感じ、行動する存在と理解します。
しかし聖書には人間は、霊と心と体、と理解している聖句があります。
テサロニケ一 5:23
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。
人間の霊と心(魂)と体に対する祝福が祈られています。まだほかにも人間の霊を語る箇所があります。
ローマ 8:10
キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。
この箇所ではキリスト者の体と霊が対比されていると考えることができます。「体」の死と「霊」の命の対比です。それゆえこの箇所の霊は、聖霊ではなく、人間の霊と考えることができます。
すると人間の「霊」とは何かという問いが生まれます。
人間には人格があります。「私の名前は****です」と語るときの「私」、物事を決定するときの「私」、これは人格としての「私」です。この人格としての私は、自分の心が何を考えているのか、何を感じているのか、何をしたいと思っているのか、心を観察することができます。そしてその上で自分の行動を決定します。人の行動を決定するのは、人格としての私です。
この人格は人間の「霊」の部分と結びついていると考えることができます。この霊は死んだ状態の時があり、また生きている状態の時があります。
この霊が生きているとき、人は神との関わりに生きることができます。この霊が死んでいると、神との関わりは生まれません。つまり人は神を信じないし、信じようともしないのです。霊が生きているか、死んでいるか、人間には二つの状態があります。
神が人間を創造されたとき、この人間の霊は勿論生きていました。人は神との交わりの中に生きていました。ではいつ人間の霊は死に、いつ人間の霊は生きるようになったのでしょうか。