クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

聖書から人間を考える(2)人間の霊の死と再生

 人間は霊と心(魂)と体からできていると聖書が教えていると信じます。

テサロニケ一 5:23 どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。

 私たちの霊と魂と体に対する祝福が祈られています。聖書によれば人間の霊は、人間が神に造られてまもなく死んでしまいました。創世記2章で神はアダムに語ります。

創世記 2:16~17
主なる神は人に命じて言われた。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。

 「食べると必ず死んでしまう」と神は警告しました。神のこの警告にもかかわらず、アダムとエバはこの木の実を食べてしまいました。でも彼らが死んだようには見えません。生きています。神は彼らに、なぜ食べたのかと問い、彼らはそれぞれ答えています。

 では何が死んだのでしょうか。彼らの霊が死んだのです。彼らの心と体は死にませんでした。彼らの霊が死にました。霊が生きているとき、人は神との交わりに生きることができます。でも霊が死ぬと神との交わりが失われます。アダムとエバはエデンの園から追放されました。アダムとエバは神なしに生きる者となりました。

 そしてこのアダムは人類を代表する人間です。言い換えるとこの世に生まれる人間は、皆、霊が死んだ人間なのです。人は皆、神との交わりを知らない人間として、神なしに生きるように生まれてきます。神なしに生きる人間は自分第一に生きる人間となります。さらに言えば、罪を犯す人間として生きることを始めます。人間の世界の混乱は、罪が原因です。

 では、死んだ霊はどのようにして再生するのでしょうか。それは十字架の上で死んだイエス・キリストが、人間の罪のあがないのために死んだことを信じ、洗礼を受けた時、人は賜物として聖霊を受けます。この聖霊は人間の中に住んでくださいます。洗礼を受けた時、人間の霊は再生します。これは実感できることではありません。

 人間の霊が生きる時、人は神との交わりに生きるようになります。人格としての「私」は、神との交わりに生きる者となりました。神を礼拝し、聖書を読み、神に祈る者となりました。また神の御心に生きることを志すようになりました。信仰生活を始めます。

 私たちがこのように信仰生活を始めるなら、このことは私たちの霊が生きていることを証しします。私たちが聖霊に導かれていることを証明します。以前の私から見ると、キリスト者の私は生まれ変わったのです。

テトス 3:5
神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

 私たちは洗礼を受けキリスト者になります。洗礼を受け、聖霊が私たちのうちに住み、人間の霊が生きるものとなりました。私たちはキリスト者となり、新しく生まれたのです。

タカネツメクサ 2009.8 立山