人は洗礼を受け、キリスト者になると生まれ変わります。
キリスト者である私、人格としての「私」は、霊が生きるようになり、神との交わりに生きる者となりました。人格としての「私」は、信仰に生きようと志し、実際に信仰に生きます。
新しく生まれ変わったのは人格としての「私」です。信仰を持つ以前の人格としての「私」は神なしに生きることを当たり前としていた「私」ですから、神を信じて生きようとする「私」は、明らかに新しく生まれ変わったのです。
ローマ 6:3
それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち
キリスト者は洗礼を受け、キリスト・イエスに結ばれました。洗礼を受けたキリスト者のうちに聖霊が住まわれます。それは人格としての「私」がキリストに結ばれていると言い換えることもできます。
ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。ローマ 8:14
神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです。
キリスト者のうちに聖霊が住まわれ、キリスト者の霊は再生し、キリスト者は神との交わりに生きるようになりました。キリスト者は神の子とされました。神はキリスト者のことを神の子とご覧になります。キリスト者に対して神の子として接してくださいます。キリスト者の祈りを天の父として聞いてくださいます。今やキリスト者は、罪人ではなく神の子です。
人格としての「私」は新しく生まれ変わりました。神の子となりました。これは恵みです。私たちはキリスト者ですが罪を犯します。しかし神さまは、私たちを神の子として接してくださいます。なぜなら、私たちが神の子として生きていくことを志しているからです。
私の心は「私が神の子、とんでもない。罪を犯すのに神の子?信じられない」と言うかも知れません。私の心は「私は罪を犯す罪人といったほうが納得できる」と言うかも知れません。しかし人格としての「私」は私の心に言うのです。「私は神の子とされたよ。神の恵みによって神の子とされたよ。わが心よ、信じよう」。
人格としての「私」は、神との交わりに生きることを志し、神の子とされたことを感謝し、神の子として生きていくことを志します。これが信仰に生きるということです。
さらに言えば、キリスト者はイエス・キリストを信じることによって義とされました。
ローマ 3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
人格としての「私」は、自分は神の前に義なる者であると信じます。罪を犯しますがなお、神の前に義なる人です。キリスト者とは神の前に、義なる者、そして神の子です。これがキリスト者のアイデンティティーです。
私の心は言うかも知れません。「罪を犯すのに義人と認めるなんて、神さまの行動はおかしいよ」。人格としての「私」は言います。「そうだよ、おかしいよ。でもね、神さまの恵みなんだよ。だから感謝して神の子として生きていくんだよ。義なる者になっていくんだよ」。
♪♪ 主に罪を赦され ♪♪
主に罪を赦され、神の子の恵みに
満たされた喜び、心から歌おう
わが命 わが歌 とこしえに主をほめ
わが命 わが歌 救い主キリスト