罪を犯す、これは犯罪を犯すことではなく、神の前に罪を犯すということです。人はなぜ罪を犯すのでしょうか。
人は神に似せて造られました。人は人格を持つ存在であり、他者との関わりに生きる存在として造られたと理解します。造られた神の意図としては、人が神との交わりの中に歩み、神に対する愛、他者に対する愛、自分に対する愛に生きることにあると理解します。
その人間が罪を犯します。神の御心に反することをします。なぜでしょうか。理由として三つのことを上げたいと思います。
- 人間が自己中心的である
- 人間はプライドによって生きている
- 人間は弱さをかかえて生きている
人間は神ではなく、全能ではありません。言い換えると自分は何でもかんでも自分の思い通りにすることはできません。しかし自分の思い通りにしたいとの強い欲が人間にはあります。物事が自分の思い通りになるようにと願い行動します。その時人間は、自分第一、自己中心的に生きるようになります。
アダムとエバは、神が取って食べてはいけないと言った木の実を食べました。「してはいけない」と言われたら、自分の好きにして何がいけないんだとの思いが湧いてきます。自分のしたいようにする、それでこそ生きていると言える、そう人は考えます。
与えられた人生、自己実現こそ、生きた証しになると人は考えます。自分の思い通り、納得のできる人生の追求こそ、幸福であると人は考えます。
このような人間の歩みのすべてが罪だというのではありません。本来人間の力、能力には限界があり、何でも自分の思い通りにすることはできません。しかし自分の思い通りにしようとするとき、ひずみが生まれ、そこに罪が生じると考えます。
イスラエルの王で敬虔な信仰者でもあった王ダビデ。彼はある時、美しい女性が水浴しているのを見ました。家来に彼女を宮殿に連れてこさせ、姦淫の罪を犯しました。彼女から妊娠したとの知らせを受けると、彼女の夫を戦場で死なせるように、部下に命じます。王の持つ権力、人を自由に動かせる力を用いてダビデは罪を犯しました。自分の思い通りに生きたいという強い思いが人間にはあります。
自分の思い通りにならないことが沢山あり、いつもイライラして、家族に不満をぶつけるということもあります。
自己中心的に生きれば、他者との間に摩擦が必ず起きます。争いが生まれれば憎しみも生まれます。悪意が生まれ、非難したり、相手を貶めようと画策したりもします。
エフェソ 2:3
わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした。
人が自分の欲望や心の欲するままに行動するとき、そこに罪が生まれることを聖書は教えています。