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隠退牧師 holala によるブログ

人はなぜ罪を犯すのか(2)プライドがあるから

 人はなぜ罪を犯すのか。

 二番目の理由としてプライドがあると考えます。人はプライドが傷つけられると怒ります。それは自分という人間の尊厳が傷つけられるからです。「許せない」と怒り、他者を殺すことさえあります。

 人間は、自分の価値を認めてもらいたいという欲求があります。自分は生きていていい存在、自分はそれなりに価値ある存在である、そんな確信を人は欲しがります。このような確信を得るとき、人は満足します。プライドが満たされます。でも満たされることは少なく、憂さ晴らしに人は、他人の悪口を言ったり、他人の欠点をあげつらったりします。

 昨今インターネットのSNS上で誹謗中傷が沢山あると聞きます。他者を誹謗し、人は無意識のうちに自分のプライドを保っているのだと思います。

 人は無意識のうちに、自分のプライドを第一にして生きようとしています。だれもが自分のプライドを第一にして生きるなら、必ず争いが起こります。夫婦喧嘩、親子喧嘩、それは相手のプライドを傷つけ、相手から傷つけられる争いです。夫婦の場合は、離婚して婚姻関係の解消に至ることもあります。親子関係の場合には絶縁状態という結果が生じます。

 国家のプライドは、戦争という形で現れます。やられたらやり返します。やられたままでは屈辱です。戦争の場合は何でもありです。お互いに嘘をつきます。戦争で何が起きているのか、事実は分かりません。互いに相手の行動を非難し、常に自分を正当化します。自分の行動は正直に語ることはしません。

 自分の思い通りに生きたいと願うことと関連しますが、自分の思い通りに生きることができれば、プライドは満たされます。しかし思い通りにならないから不満がたまります。

 人はプライドがなければ生きていけないという現実面もあると思います。親が子供に向かって「お前はダメな人間だ」と繰り返し、繰り返し言ったとします。子供は自分に自信を持てず、生きる意欲を失います。

 使徒パウロ。彼はキリストを信じる前、熱心なユダヤ教徒でした。神の戒め、律法を守ることにおいては、誰にも引けを取らないと自慢していました。自分は神に対する熱心のゆえに、クリスチャンを迫害していたと誇るのです。でも復活したイエスに出会い、そのような誇り、彼のプライドは、完全に砕かれました。

 福音書に登場する律法学者、ファリサイ派の人たちはパウロと同様、神の戒めを自分たちは守っている立派な信仰者であるとの誇りに生きていました。彼らは主イエスから偽善者と非難され、主イエスに対して怒り、主イエスを十字架につけてしまいました。偽りのプライドに人はなかなか気づきません。

 聖書は、「誇る者は主を誇れ」(コリント一1:31)と教えています。

マツムシソウ 2009.8 霧ヶ峰