人はなぜ罪を犯すのか。
三番目の理由として人の弱さがあると考えます。弱さの代表は「恐れ」ではないかと思います。人は恐れに支配されることがありますし、恐れを避けたいと考えるものです。でも突如として恐れに包まれると人は思わぬ行動を取ります。自分を守ろうとします。保身です。
イエスの弟子のペトロは、イエスが逮捕されたとき、距離をおいてついて行きます。イエスが裁判を受けている場面を遠くから見ることのできるところに身を置きます。ある女が「あなたはあの人と一緒にいた」と言われたとき、ペトロは恐れに包まれ、「あの人のことは知らない」と否定しました。三度否定しました。
人は自分を守るために嘘をつきます。国会で議員が「記憶にありません」とか、「知りません」とか答えるのを見ます。だれもが正直に答えているとは思いません。でも彼らは自分を守るために嘘をつきます。非難される自分を見せたくないのです。
アダムとエバは、神が取って食べてはいけないと言われた木の実を食べました。神から取って食べたのかと問われたとき、彼らは恐怖を感じました。正直に答えられず、アダムはエバのせいに、エバは蛇のせいに責任転嫁をしました。
神ならぬ人間は無力という弱さを抱えています。自分の無力さが暴露されることは絶対に避けたいと考えます。弱さがばれてしまう、それは自分のプライドが傷つくことにもつながります。そこで人は逃げるのです。
神がイスラエルの民をエジプトにおけるj奴隷状態から救い出そうとし、そのためにモーセに呼びかけ、使命を与えます。するとモーセは、私は弁が立つ者ではありません。口が重く舌の重い者なのですと言って拒みます。預言者エレミヤも、神から預言者として働くように召されたとき、「私は語る言葉を知りません。私は若者に過ぎません」と拒みます。
しかし相手が神さまの場合に逃げることはできません。神さまは、私があなたと共にいて助けると言ってくださるからです。
でも私たちは自分の無力さを知っているので、物事に対して取り組むことに消極的になります。あるいは逃げたりします。
あるいは頑なさを弱さの範疇に入れてよいのか分かりませんが、神さまの御心に対して反発をします。この戒めは、むずかしいよね、無理よねと従うことを拒んだりします。人は自分の弱さを見せまいとして罪を犯します。