前回「肉」について定義を試みました。
「肉」とは、生まれながらの人間のもつ性質、さらに人間が成長する中で身につけてきた考え方、生き方を含む性質と定義したいと思います。
その特徴は、自己満足を求めるという特徴があります。それゆえ自分を第一に、自己中心的に生きるという特徴があります。
この世界で、キリストを信じない人々は、皆肉に従って生きる人と考えることができます。聖書は、肉に従う人の問題点を指摘しています。
ロマ 7:5
わたしたちが肉に従って生きている間は、罪へ誘う欲情が律法によって五体の中に働き、死に至る実を結んでいました。
罪は、一種の勢力を意味することがあります。人間に罪を犯すように働きかけるからです。この罪という勢力のために、罪を犯さないで生きることのできる人間はいません。
この聖書の言葉は告白となっています。我が身を振り返っての言葉です。神を信じる人の告白の言葉です。神の律法に従おうとする人の告白です。
律法は神の戒めです。神の戒めが「むさぼるな」と命じると罪は私たちに働きかけ、あらゆるむさぼりを私たちの内に起こします。神さまが「善悪の知識の木の実を取って食べてはいけない」と戒められると、「食べたい」とのむさぼりの思いが心の中にわきおこり、アダムとエバは、善悪の知識の木の実を食べてしまいました。
律法が「~せよ」を命じれば「したくない」との思いが、「~してはいけない」と命じれば「してみたい」との思いが私たちの心に生じます。その結果、人間は神の律法に背いてしまいます。
「肉」の性質は、自己満足を求めますから、自分のしたいことをします。その結果、神の律法にも背きます。旧約聖書に登場するダビデ王は敬虔な王でしたが、王という地位にあって傲慢な心が、人の妻である女性を宮殿に連れてこさせて姦淫をし、姦淫の罪を隠すために、姦淫をした女性の夫を戦場で死なせます。
神の戒めを守ろうとして、かえってそれに背いてしまうという経験を信仰者は味わう中で、キリストによる救いを信仰者は経験していきます。そして聖書の言葉を実感していきます。つまり肉に従う歩みは「死に至る実を結ぶ」ことを実感していきます。
死に至る実には二つの意味があると考えます。一つは、むなしいということです。一時的な自己満足を求めて生きているにすぎないということです。今ひとつは、神の裁きを受けて、滅びに至るという意味があります。
終わりの日の神の裁き、いわゆる最後の審判において、人が死に至る実を結んでいたことが明らかになるというのです。聖書は、終わりの日の審きを通して、人間の永遠の運命が決定すると教えます。
肉に従う人の問題点は死に至る実を結ぶことにあります。