マタイ福音書9章27~31節には二人の盲人が登場します。彼らは「ダビデの子よ、私たちを憐れんでください」と言いながらイエスについて行きました。イエスのあとについて彼らが家に入るとイエスは「私にできると信じるのか」と言います。二人は「はい」と答えます。するとイエスは彼らの目に触り、「あなたの信じたとおりになるように」と言います。すると二人の目が見えるようになったと書かれています。
今回この箇所を読んで「憐れみ」という言葉が心に留まりました。二人の盲人は「憐れんでください」と言ってイエスに近づきます。イエスは彼らの願いに答える憐れみ深い方です。イエスは「あなたの信じたとおりになるように」と言われ、盲人たちの目が開かれました。
「憐れんでください」とは、私をかわいそうな者とご覧になり、私を助けてくださいという意味です。私たちは日常生活で「私を憐れんでください」とは言いません。私たちはそれなりに自分の力で自分の生活を営んでいます。自分が、人の助けを必要とするかわいそうな人間であるとは思っていません。思いたくもありません。
日本では生活保護という制度があります。色々な事情で生活するのに必要な収入を得られず、生活に困窮している人を経済的に援助する制度です。ある人たちは、このような援助を受けるのをよしとせず、保護を受けない人もいます。生活保護を受けるのはかわいそうな人、自分はかわいそうな人間ではないとの思いから援助を受けないと考える人もいるようです。
マタイ福音書を読んで、「憐れみ」という言葉が心に留まりました。自分も主イエスに「憐れんでください」と言って近づいていいんだと思いました。主イエスは私たちを憐れんでくださるお方だからです。
特に信仰者としての自分の歩みを思うとき、自分の歩みは未熟ですし、自分が犯す罪に打ち砕かれることもあるし、キリストを証しするような歩みは自力ではなかなかできないことを思うとき、自分はかわいそうな信仰者であり、それゆえ、主の憐れみを求めることができるのは幸いだと思います。
主の憐れみを求める私たちに対して主イエスは何と言われるのでしょうか。
「あなたの信じたとおりになるように」。
これ、素晴らしくないですか。私はこうなりたいとの願いをもって主イエスに憐れみを求めるとき、「あなたの信じたとおりになるように」と言ってくださり、それが実現するのです。驚きです。うれしいです。祝福です。
私は年を重ね、後期高齢者となりました。いつ命の終わりの時を迎えてもおかしくない年齢になりました。主イエスは十字架の上で亡くなるとき、「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)と祈り、息を引き取られました。この祈りを私も平安な心で祈ることができるように、主よ、憐れんでください。