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隠退牧師 holala によるブログ

聖書から人間を考える(8) 肉に従う人の問題点(続き)

ロマ  7:14
わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。

 罪に売り渡されているとは、奴隷として罪に売り渡されたこと、つまり私たちは罪の奴隷であると語っています。肉の人、肉に従う人は罪の奴隷だというのです。イエスも罪の奴隷について語っています。

ヨハネ 8:34
イエスはお答えになった。「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」。

 これはイエスが活動する中でイエスを信じたユダヤ人に対して、語られた言葉です。まずイエスは彼らにこう言いました。

 8:32
あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。

 するとユダヤ人たちは言います。

 8:33
すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか」。

 これに対してイエスは、34節「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である」と語られたのです。

 私はかつて自分はタバコの奴隷だと思っていました。タバコは健康を害するのでやめた方がいいことは分かっていてもやめられないのです。やめたいと思ってもやめられない、それはタバコに支配されていることであり、タバコの奴隷であるということです。奴隷なら解放されれば自由になります。私は神の恵みによりタバコの奴隷状態から解放されました。

 もし私たちが神の教えに従いたいと思っても従うことができないなら、こうすることが神の御心だと分かっていてもそれができないというなら、それは自分が罪の奴隷であることを示しています。奴隷であることを認めれば、解放される道がひらけます。イスラエルの民はエジプトでの奴隷状態から神によって解放されました。私たちはイエス・キリストの救いを受けて、罪の奴隷状態から解放されます。

 キリスト者の中には「自分は罪深い信仰者である」と考えている人が少なくないように思います。その人たちは自分がキリスト者であることを誇りに思うことができているのかなと思います。自分は罪深い者であると語るとき、そこには神の戒めを守ったり、神の御心に従う歩みについて、自分はできないという諦めがあるのではないでしょうか。自分の力で乗り越えることができないから、罪深いと考えたと思われます。

 真の問題は、自分が罪深いことにあるのではなく、自分が罪の奴隷であることを認めないことにあるように思います。奴隷なんて言われたら自分が惨めになります。しかし罪から解放してくれるイエス・キリストの救いを受け取るなら、罪から解放されてキリスト者とされたことを喜び、誇ることができます。

 肉に従う人をパウロは肉の人と呼びました。その問題は、肉に従う人が罪の奴隷だということです。

ハクサンシャジン 霧ヶ峰 2009.8