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隠退牧師 holala によるブログ

讃美歌285番 主よ御手もて

 最近よく youtube で聞き、賛美している曲です。よく知られた讃美歌ですが、歌詞に目を留め、あらためてすごい讃美歌だと感じています。すごい、というのは深い信仰から出ている気持ちが歌われているとの驚きです。

主よ 御手もて ひかせたまえ
ただわが主の 道を歩まん
いかに暗く けわしくとも
みむねならば われいとわじ

 まず「主よ」と呼びかけ、あなたの御手で私の手を引いてくださいと祈ります。

マタイ 16:24
それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。

 このイエスの言葉は威厳があります。「主よ」と呼びかけ、「私の手を引いてください」と言うのをためらわせる威厳があります。もっと力強い弟子でなければならないと思わされます。

 でも自分の弱さを認めた上で、なお主について行きたいとの信仰があります。そして素直に「主よ」と呼びかけ、「私の手を引いてください」と助け、導きを祈ります。主について行きたい、主に従っていきたいとの信仰を言い表しています。自分は弱いからとあきらめるのでなく、弱いから主の助けを求めて、私の手を引いて下さいとお願いします。

 「ただわが主の 道を歩まん」。私は主の道を歩みたい、私は主の後に従っていきたいとの信仰を言い表します。信仰者として何を求めて生きるのか、信仰の姿勢が明確です。主の道を歩みたい、潔い信仰です。主に従う、それは人間的能力の有無には関係なく、一人の信仰者としての本音、人格を持つ人間として主に従いたいか否か、主に従いたいとの決断から生まれる主に従うとの告白。

 「いかに暗く けわしくとも」。心がひるんでしまうような状況に直面しても心は変わりません。誰でも、恐れに囚われ、心がひるんでしまえば、真っ直ぐ進むことにためらいを覚えるものです。自分の力に頼るなら、前進できません。「恐れるな」との主の声を聞きます。主の声を聞かずして、前進はできません。

 「みむねならば われいとわじ」。御旨なら、前進しますとの告白。ここにおいても「主よ、御手もて、ひかせたまえ」と主に結ばれて生きる信仰があります。主に対する心からの信頼を貫いて歩みます。

 深い信仰を秘めた讃美歌であることに驚きます。

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