私は今、老いを生きています。信仰によって老いを生きています。私にとっての課題は、神の国をどのようなものとして思い描き、それを自分の希望とすることができるか、です。
コリント一 8:6
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。
キリスト教の葬儀では、亡くなった方を「主のもとに召されました」と語ります。このことはこのコリントの信徒への手紙が語っています。私は神のもとに帰ることについて、具体的なイメージを描きたいと願う思いがあります。
ヨハネの黙示録には神の国の光景が描かれています。
黙示録 21:3~4
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
慰めに満ちた光景です。
今私が大切にしたいと思っている聖句を紹介します。
ローマ 8:23~24
被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。
使徒パウロは、「私たちは神の子とされること」を待ち望んでいると語ります。神の国に迎えられるとは、天の父なる神の子として、迎えられることを意味しています。それをパウロは待ち望んでいると語り、この希望によって自分は救われていると語ります
この希望は、キリスト者に生きる指針を与えます。つまり神の子として成長する、それがこの世におけるキリスト者の歩みであると教えます。私たちは洗礼を受けることにより神の子とされます。神は、私たちのことを神の子として取り扱ってくださいます。
ガラテヤ 3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
私たちキリスト者の実質は、罪を犯す者です。でも神は、神の子と私たちを見てくださり、私たちと関わってくださいます。時々、「私は罪人です」とキリスト者が語るのを聞きます。キリスト者は、生活の中で罪を犯すことは事実ですが、私は神の子とされていることを喜びたいと考えています。ですから私は自分のことを「神の子である」と考えるようにしています。
そこで私は、少しでもいいから、神の子らしく生きていきたいと考えていますし、努力しています。自分がどれほど神の子らしくなったのかという達成度は考えません。達成度を考えると、ある人は自分の達成度を誇るかもしれませんし、ある人は自己を卑下すると思います。大事なのは、神の子らしく生きることを常に努力することだと思います。
そして神の国に迎えられたとき、自分がどのような神の子にされているのかを楽しみにしたいと思っています。