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隠退牧師 holala によるブログ

悔い改めを考える(1)生き方の転換

 日本基督教団の諸教会の礼拝において、「祈祷」という場面があります。その祈りの中で、神への賛美、神への感謝が祈られ、罪を告白したり、説教のための祈りや、他者のための執り成しの祈りがささげられます。

 教会の役員あるいは長老、また牧師がこの祈祷を担当することが多いと思います。かつて私が奉仕していた金沢元町教会では、この祈りを長老たちと牧師で順番に交代して担当していました。今、説教奉仕で出かけるとき、その教会の役員あるいは長老の方がどのように祈られるかは関心をもって耳を傾けます。

 以前から私は、この礼拝における「祈祷」には問題意識を持っていました。役員あるいは長老の方が祈るとき、特に「罪の告白」に関わる部分の祈りは、毎回同じ言葉で祈られることが多いように思います。私たちの信仰生活は、激動の信仰生活ではなく、毎日似たような日々を送っていますから、同じ言葉で祈ることになるのは、ある意味当然と言えます。

 しかし、毎回、同じような罪の告白をするというのはどういうことなのかという疑問が生じます。たとえば、「この一週間、日々の生活にかまけて神さまのことを思うことが少なかったことを告白します。お赦しください」という祈りがささげられます。[かまけるというのは、あることだけに関わり、他のことを顧みる余裕がなくなることを意味します]。

 このように祈られた方が、次に祈る時も同じ言葉で祈るのです。もし心から、神さまのことを思うことが少なかったと思うなら、生活の忙しさの中でどうしたら神さまのことを思い、信仰に生きることができるのか、考えるはずです。そしたら、そのことが次回の祈りに反映していいはずです。でも前回と同じなのです。ということは、反省は言葉だけで、反省が生活を変えることにつながっていないことが想像できます。

 このような現実に触れるにつれ、「悔い改める」ということが行われていない信仰生活があることを知らされます。もしかしたら「悔い改める」ということが教えられていないのかもしれません。そこで悔い改めとは何かを考えてみたいと思いました。

 イエスは、宣教開始に際し、次のように語りました。

マタイ 4:17
そのときから、イエスは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って、宣べ伝え始められた。

マルコ 1:14~15
ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、
「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。

 マタイ、マルコ福音書では、イエスは「悔い改め」を訴えました。使徒ペトロはペンテコステの日、次のように語りました。

使徒 2:38
すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

 使徒パウロはギリシャのアテネで説教したとき、こう語りました。

使徒  17:30
さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

 イエス、ペトロ、パウロ、いずれも悔い改めを語っています。この場合、悔い改めとは、イエス・キリストを信じること、福音を信じることを意味します。自分の生き方を転換することが勧められています。イエス・キリストを信じていない生活から、信じる生活への転換です。悔い改めとは、生き方を転換するという意味のあることが分かります。

ヒガンバナ 散歩道で