一昨日の日曜に説教奉仕をしました。以下その原稿です。
読んでいただけたらうれしいです。
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聖書 ローマの信徒への手紙2章1~16節
説教 神の憐れみが導く悔い改め
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1.導入
→今日の説教のテーマは、「神の憐れみが導く悔い改め」です。
礼拝の中でも悔い改めの祈りがあります。
宗教改革者のルターは、クリスチャンの全生涯は悔い改めであると語っています。
聖書が語る悔い改めについて耳を傾けたいと思います。
→今日はローマの信徒への手紙2章です。
1章では異邦人、つまりユダヤ人でない人たちが皆罪を犯しており
神の怒りを受けるものとなっていることが書かれていました。
つまり聖書の神を知らない人たちは皆、罪を犯しているというのです。
次の2章は、ユダヤ人つまり神の民であるユダヤ人も罪を犯していることが書かれています。
2.ユダヤ人の罪
→神の民ユダヤ人が罪を犯していることについては、
どのように書かれているのでしょうか。
2:1
だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです。
→ユダヤ人は他人を裁きながら、その他人と同じことをしているのです。
あの人は罪を犯していると人を裁く時、自分も同じ罪を犯しているのです。
それゆえユダヤ人もまた神の怒りを受けるべき者になっています。
使徒パウロは、2章の21節以下で次のように語りユダヤ人の罪を指摘しています。
ローマ 2:21
それならば、あなたは他人には教えながら、自分には教えないのですか。「盗むな」と説きながら、盗むのですか。「姦淫するな」と言いながら、姦淫を行うのですか。
→パウロはユダヤ人であり、律法、つまり神の戒めを自分は誰よりも熱心に守っていると誇っていました。
しかし彼がイエスに出会い、イエスを知ると、自分が律法を守ってきたのは上辺だけであったことを知らされます。
→たとえば十戒に「人を殺してはいけない」とあります。
殺人をしていなければこの戒めを守っていることになるのでしょうか。
イエスは人に向かってバカとののしるのは、人を殺したに等しいと教えます。
他者の人格を傷つけるという点で、殺人も人をののしることも同じなのです。
ユダヤ人も律法を守っているというのは上辺だけ、実際には罪を犯しているとパウロは指摘します。
→罪を犯しているユダヤ人に対してパウロは言います。4節。
2:4
あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。
→神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、とあります。
ユダヤ人は、自分たちは神の民と言っていますが、神の憐れみが悔い改めに導くことを知らないでいるとパウロは指摘します。
→「神の憐れみ」とあるように、聖書の神は憐れみ深い神です。
憐れみに富む神です。
「憐れみ」とはどういうことでしょうか。
「憐れむ」とは、相手をかわいそうな人間、気の毒な人間と思って、相手に対して親切にすることを意味します。
ユダヤ人たちは、自分たちは神の民であり、神から律法を与えられ、
いかに生きるべきか知っているという誇りを持っていました。
ですから自分が憐れみを受ける気の毒な人間、可哀相な人間とは考えていません。
ですから彼らは、
「神の憐れみが自分を悔い改めに導く」ことを知らないのです。
知ろうともしません。
その結果、神の慈愛、寛容、忍耐の富を軽んじているとパウロは指摘します。
「神の慈愛、寛容、忍耐の富」と言われても、
具体的なイメージが湧いてこないかもしれません。
3.荒野を旅するイスラエルの民
→聖書には、神の慈愛、寛容、忍耐が示されている聖書箇所があります。
それは出エジプトの出来事において現されています。
旧約聖書の出エジプト記にはイスラエルの民が登場します。
イスラエルの民とユダヤ人は同一です。
旧約ではイスラエル、新約ではユダヤ人と言葉が使い分けられているように思います。
そのイスラエルの民はエジプトにおいて、
エジプト王の奴隷でした。
長い年月、奴隷として苦しい生活をしていました。
苦しさに耐えがたくなってついに
イスラエルの民は神に助けを求めて叫びました。
彼らは自分で自分を救うことのできない「みじめな存在」でした。
神にすがるほか、助かる方法がありません。
→神は彼らの叫びに答えて、二つの約束を与えました。
① エジプトでの奴隷状態から解放する。
②乳と蜜の流れる地に連れて行く。
→この乳と蜜の流れる地とは、肥沃な土地、つまり豊かな実りをもたらす地です。
そこに連れて行くとは、そこで自由に生きることができることを意味します。
神に祝福された生活ができます。
→まず第一の約束です。
出エジプト記には、神が大いなる御業を行い、
イスラエルの民をエジプトから解放したことが書かれています。
このことは映画になるくらいで、興味深い出来事の連続です。
そして一番目の約束は実現しました。
→エジプトから解放されたイスラエルの民は、乳と蜜の流れる地、
神が彼らを連れて行くと約束された地に向かって旅を始めます。
その旅は、荒野の旅でした。
荒野、そこには森や木や川がありません。
荒涼とした地です。人が暮らすことのできる場所ではありません。
そこでいくつもの困難にイスラエルの民は直面します。
→最初の困難は、エジプト軍がイスラエルの民を連れ戻そうと追いかけてきたことです。
エジプト軍を見て恐れを感じたイスラエルの民は
指導者モーセに言います。
「我々をエジプトから連れ出したのは、エジプトには墓がないからですか、
荒野で死なせるためですか」と文句を言います。
そして彼らは「荒野で死ぬより、エジプト人に仕える方がましです」とも言います。
あの苦しい奴隷生活から神が救ってくれたことを
全く忘れたかのような身勝手な言い分です。
しかしモーセは神に祈り、言います。
「恐れてはならない。落ち着いて、今日、
あなたたちのために行われる主の救いを見なさい」と語ります。
そして神はエジプト軍を壊滅させ、イスラエルの民を救います。
→約束の地に向かう荒野の旅でイスラエルの民は、
何度も困難に遭います。
ある時は食べ物がなくなります。
別な時は飲み水がなくなります。
命に関わる困難に何度も遭います。
困難に直面するやイスラエルの民は、不平、文句を言うのです。
民が文句を言っても、神は奇跡を行いイスラエルの民を救います。
そしてついに約束の地を目の前にするところに到着します。
→指導者モーセは、偵察隊を送り、これから行く土地がどんな土地か、偵察させます。
戻ってきた偵察隊は報告します。
「そこはよい土地で実り豊かな土地です」。これは良い報告です。
「そこには強そうな人たちが住んでいます」。これは悪い報告です。
この悪い報告を聞いて、イスラエルの人たちは
前進すれば、殺されるに違いないと考え、
恐れをなし、エジプトに戻ろうと言い出す始末です。
4.慈愛と寛容と忍耐に富む神
→その時ついに神は怒ります。
あなたがたはいつになったら私に信頼するのか、と怒ります。
堪忍袋の緒が切れたのです。
この時のイスラエルの民も、
神の慈愛と寛容と忍耐の富を軽んじたのです。
→神の慈愛。神は人を慈しみ人を愛する神です。
慈しむ、それは自分の子を可愛がるように、大切に思うことを意味します。
神はエジプトで奴隷状態のイスラエルの民を憐れみ、慈しみ、
彼らを大切な存在と受けとめ、
彼らをエジプトから救い出したのです。
神はイスラエルの民を愛したのです。
神にはイスラエルを救い出す義務はありません。
奴隷状態にあり、みじめな状態にあるイスラエルの民を
神は憐れみ、慈しみ、エジプトから救い出しました。
また荒野の旅においても、困難が起きるつど民を助けたのです。
→また民が文句を言っても、寛容にもその不満を受けとめ、
御業を行って試練から民を救ったのです。
困難が起きるつど民は不平を言いました。
でも神は寛容で、なぜ文句を言うのかと怒ることをせず、
それどこからイスラエルの民を困難から救い出したのです。
御業を行って困難から民を救ったのです。
神は不平を言うイスラエルの民に忍耐し続けたのです。
それは彼らが神に信頼し、困難の中で神に助けを求めるのを
ずっと待っていたのです。
忍耐をもって待っていたのです。
→思い出してください。
神は初めに、彼らを乳と蜜の流れる地に連れて行くと約束しました。
イスラエルの民はその約束を信じ、困難が起きたとき、
神に信頼し、神に助けを求めればよかったのです。
でも民は、神の約束を忘れたかのように
神に対して不平を繰り返したのです。
しかし神は寛容にもそんな彼らに怒ることなく、
彼らが神に信頼するのを忍耐をもって待っていたのです。
神の約束を思い出し、神に信頼するようになるのを待っていたのです。
しかしイスラエルの民は神に信頼しませんでした。
彼らは神の慈愛と寛容と忍耐の富を軽んじたのです。
なぜでしょうか。
→彼らは不信仰に陥ったのですが、それはなぜなのでしょうか。
なぜ頑なになって神に信頼し助けを求めようとしなかったのでしょうか。
→これは私の考えですが、彼らは自分たちが「みじめな存在」であることを忘れたからだと思います。
エジプトにいたとき、彼らは奴隷で、
自分で自分を救えないみじめな存在でした。
奴隷という苦しい生活を拒むことができない
みじめな存在でした。
だから彼らは神に助けを求めました。
慈しみと憐れみに富む神は、彼らを助け、
エジプトから救い出します。
そして民は荒野の旅をします。
→奴隷状態から解放された民は、自分がみじめな存在であり、
神に頼るしかないことを忘れてしまいました。
自分たちを支配するエジプト王がもはやいないからです。
奴隷のみじめさからは解放されました。
荒野の旅をしている時も彼らはまだ自分で自分を救えないみじめな存在です。
でもそれを忘れて、神に文句を言うのです。
自分がみじめな存在であることを忘れると
人は自分を主張するようになります。
奴隷の時は自分を主張することはできません。
それでイスラエルの民は神に文句を言うようになりました。
エジプトの奴隷状態から救ってくれた神に、文句を言うのです。
自分がみじめな存在であることを忘れ
救ってくれた神の恩を忘れ、
神に対して何か要求できると考える存在になってしまいました。
人は自分がみじめな存在であるとは考えたくないのです。
→彼らは神が慈しみをもって彼らを救われたこと、
不平や文句を言っても神が寛容に受け入れてくれたこと、
何度も不平や文句を言っても神は忍耐してくれていたこと、
そのことに気づけませんでした。
イスラエルの民は、自分のことしか考えていないので、
神の約束を思い起こし、
神に信頼するのを神が待っていてくださることに気づけませんでした。
彼らは神の慈愛と寛容と忍耐の富を軽んじたのです。
その結果、神に信頼しなかった人たちは
荒野で40年の生活をし、荒野で死んでしまいました。
約束の土地に入ることができませんでした。
→神の憐れみが悔い改めに導くことを知らないで、とあります。
神の約束と神のみ業に目を留めていたらよかったのです。
そうすれば荒野で困難に遭っても、神の約束を信じ、
神に信頼できたし
困難の中でも神は助けてくれる、嬉しいな、神が共にいる、ありがたいな、と
神を賛美しながら荒野の旅を続けることができたのです。
自分が、自分を救えないみじめな人間であることを忘れたために
神に楯突くような態度をイスラエルの民はとったのでした。
5.キリスト者
→次はキリスト者である私たちです。
私たちがキリスト者になったこと、キリスト者に導かれたこと、
そこには神の慈しみ、
私たちのことを大切に思ってくださる神の愛があります。
キリスト者に対する神の約束があります。
最初の約束はこれです。
ガラテヤ3:26
あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。
→神はキリスト者を神の子と見てくださるとの約束です。
これは洗礼を受けた時点で実現しました。
→神はキリスト者にさらに約束を与えます。
ローマ 3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、
神の恵みにより無償で義とされるのです。
→神は罪を犯している人間を恵みによって救おうとされます。
イエス・キリストを信じるなら、
その人は義とされるというのです。
神はキリスト者を正しい者と見てくださるというのです。
罪を犯すみじめな人間を義と認めてくださるのです。
そこには罪の赦しが含まれていることは言うまでもありません。
人は義とされているゆえに、罪を犯しても
もはや神の怒りを受けることはありません。
神はキリスト者に罪の悔い改めを求めるだけです。
同じ罪を繰り返さないことを神は求めるのです。
→人生は旅です。イスラエルの民が荒野を旅したように、
キリスト者は神の国を目指して人生を旅します。
この旅、自分の人生においてキリスト者は残念ながら
罪を犯します。
そのキリスト者に神は約束を与えます。
ローマ 8:4
霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。
→聖霊に導かれるなら、キリスト者は律法の要求を満たすことができると約束されています。
神の戒めを実行できるようになるとの約束です。
つまり同じ罪を犯さなくなるとの約束です。
福音は、救いをもたらす神の力です。
神の力が、私たちに罪を犯さないように導くのです。
助けるのです。
→使徒パウロはローマの信徒への手紙7章で、
彼自身の告白を書いています。
神の戒めを守ろうと思うのに、守れないというのです。
守ろうとするのに、逆のことをしてしまうのです。
自分は何とみじめな人間だろうと告白します。
→誰よりも律法を守っていると誇っていたパウロですが、
イエスに出会い、自分のみじめさを知ったのです。
しかし、聖霊に導かれる時、神の戒めを守ることができることを知ったのです。
ですから、「霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされる」と書くことができました。
自分がみじめであることを知り、神に助けを求めたので、
聖霊の助けにより神の戒めを守ることができるように導かれたのでした。
→私たちは、自分が神の戒めを守ろうと思っても守れないことを知った時、
自分のことをどう思うのでしょうか。
自分はみじめな存在だと思うでしょうか。
みじめだと思う時、私たちは神にすがることができます。
神に助けを求めることができます。
自分がみじめだと思うとき、神の助けにすがることができます。
→しかし自分をみじめだと思いたくないのが人間です。
そこで人は、自分は罪深い者です、と言うことがあります。
あるいは神の戒めって難しいわよね、無理よねと言うことがあります。
いずれも自分がみじめな存在であることに向き合わないのです。
しかし自分がみじめな存在であると認める時、
神に信頼することができます。
神の約束に頼り、神に助けを求めることができます。
→私たちが罪を犯し、赦しを求める時、
神は寛容にも赦してくださいます。
私たちが繰り返し罪の赦しを求める時、
神は寛容にも赦してくださいます。
忍耐をして赦してくださいます。
神は何を待っておられるのでしょうか。
聖霊によって神の律法を満たすことができるという神の約束に私たちがすがるのを待っておられるのです。
イエス・キリストを信じる私たちを神は憐れんでくださいます。
我が子のように慈しんでくださいます。
私たちに父よと呼ぶことを許してくださいます。
罪を犯す時、その罪を赦してくださいます。
寛容にも、何度も赦してくださいます。
忍耐をもって待っておられるのです。
私たちは、神の慈愛、寛容、忍耐を知るとき、
安心して自分がみじめな信仰者であることを認めることができます。
なぜなら、私たちは神の目には神の子であり、神は私たちの父なる神であり、
私たちが神の約束を信じ、
律法を満たす信仰者になることができるからです。
悔い改めとは、自分のみじめさを認め、
神の約束を信じ、神の助けを求めて生きること、
神に信頼して生きること、
神の子として生きることです。