創世記3章にアダムとエバが、神さまから取って食べてはいけないと命じられた木の実を取って食べたことが書かれています。この物語は、罪について教えてくれる大切な物語です。
罪とは神の命令に背くこと。罪を犯すように働きかける力があること。この物語では蛇の存在。罪を犯した人間の心の汚れ。アダムとエバは、自分の罪を正直に認めず、責任転嫁をしました。
アダムとエバは、神の怒りを受け、エデンの園から追放されました。この追放の出来事もまた罪を考える上で大切であると最近考えるようになりました。エデンの園において、アダムとエバは、神との交わり、神との関わりに生きていました。神と共に生きていたのです。でもエデンの園から追放され、彼らは神との交わりを失いました。彼らは神なしに生きるようになりました。
使徒パウロは、「私は福音を恥としない」(ローマ 1:16)と語ります。続けて「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と語ります。そして「福音には神の義が啓示されています」(ローマ 1:17)と語ります。福音には神の義が啓示されていると語り、罪の赦しとは言わないのです。
聖書が伝える救いとは何か、と言えば、それは罪の赦しと私たちは考えます。罪に対する神の怒り、神の罰を受けなくて済むのは、罪の赦しを与えられるからです。使徒パウロはロマ書の1章18節で、神の怒りは天から啓示されたと語り、人間の救いとは神の怒りからの救いであると語ります。
しかし福音には「神の義」が啓示されているとパウロは語ります。「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ 3:23-24)。イエス・キリストを信じる人は、無償で、恵みにより義とされるとあります罪の赦しではなく、義なのです。これはどういうことなのでしょうか。
神はイエス・キリストを信じる者を義とし、神との交わり、神との関わりに生きる者にしました。義とするのですから、罪は赦されています。神は罪の赦しからさらに進んで、イエス・キリストを信じる者と交わりを持つと神は言われるのです。アダムとエバは罪を犯し、神によりエデンの園から追放されました。神は自分の罪を認めない者とは、交わりを持つことはできません。
救いとは罪の赦しのことと考えるのは、人間の視点です。神はイエス・キリストを信じる者を御自分との交わりに迎えるのです。だからイエス・キリストを信じる者を義としたのです。キリスト者とは、義とされ、神との交わりに招かれた者です。救いとは「罪の赦し」以上のものです。
救いとは、義とされ、神との交わりに招かれる、その交わりに入ることという視点を持つことはとても大切であると思います。