創世記12章によれば、神はアブラハムに突然語りかけました。
12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。
神はアブラハムに命令と約束を告げました。「わたしが示す地に行きなさい」との命令。「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、・・・」との約束。この言葉を受け入れたアブラハムは、神との交わりに、神との関わりに生きる人生を歩み始めます。子どもがなかなか授からず、アブラハムが神の約束に対して懐疑的になっていると、神は再び語りかけました。
創世記 15:5~6
主は彼を外に連れ出して言われた。「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」
アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
創世記を読めば、アブラハムの人生は神の語りかけをきっかけとして、神との関わりの中で営まれたものであることが分かります。信仰とは、神との交わりに生きることと教えられます。
出エジプト記では、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民が登場します。彼らは奴隷としての苦しみ、つらさからの救いを求めて神に叫びました。すると神は彼らの叫びに応え、救いを約束します。神は二つのことを約束しました。
- イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から解放する。
- イスラエルの民を乳と蜜の流れる地に連れて行く。
乳と蜜の流れる地とは肥沃な土地であり、実り豊かな土地です。イスラエルの民は、その地で自由に生きることができると神は約束したのです。
神は不思議な業を次々に行い、最終的にエジプトの王は、イスラエルの民にエジプトから出て行くように命じます。その結果、イスラエルの民は奴隷状態から解放されました。そしてイスラエルの民は、神が約束された地に向かって荒野を旅します。その旅の途中、シナイ山の麓に着いたとき、神は民に語ります。「わたしはあなたがたの神となる。あなた方はわたしの民となれ」。神はイスラエルの民と契約を結んだのです。
イスラエルの民は、神に選ばれた民、神の民として神との関わりに生きることになります。そしてシナイ山の麓を出発し、約束の地を目指して旅を続けます。旅の途中でさまざまな困難が生じます。するとイスラエルの民は神に不平、文句を言います。神は、その困難からイスラエルの民を救います。このようなことが繰り返され、やがて約束の地を前にするところまで来ました。ここでも民は神に文句を言いました。約束の地に入れば、そこに住んでいる人たちに殺されるだろう、だからエジプトに戻ろうと言います。そして神に信頼しない民に、神は怒ります。神に対して文句を言うのですから、神とのよい関係に生きているとは言えません。
もし荒野の旅で困難に遭遇したとき、イスラエルの民が神に信頼していたらどうなったのかと思います。神に信頼し、助けてほしいを願えば、神は助けます。民が神に不平を言っても神は助けたのです。もし神に信頼すれば、必ず神の助けを経験します。すると民は、神に信頼し喜びと感謝をもって旅をしたはずです。彼らは神を賛美しつつ、崇めつつ、荒野を旅し、約束の地に着けたはずなのです。神とのよい関係に生きることは救いとなります。神との交わりに生きる、そこに人間の幸いがあります。
信仰とは、神との交わりに生きることである、これが聖書のメッセージです。