人は、神との交わりに生きる時が、人間らしく、そして祝福された歩みができると信じます。聖書によれば神は御自分にかたどり、御自分に似せて人を造られたとあります。それは何のためだったのでしょうか。人間は神との交わりに生きるように造られたのです。だから神との交わりに生きることが、人間にとって最も幸いとなります。
神は人間を愛され、また人間も神を愛するようにと教えます。神との交わりに生きるとは、神に愛され、神を愛して生きるということです。これを幸いとすることです。実際、神との交わりに生きる努力をするとき、人は幸いを感じます。
ガラテヤ 5:22~23
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
キリスト者は聖霊に導かれた歩みをします。聖霊の実を結ぶのがキリスト者です。その実が何かガラテヤ書は書いています。
私自身キリスト者として歩む中で、心の底にはいつも平安があります。それは神がいつも共にいてくださることを信じることから生まれる平安です。神が共にいてくださる、それがまた喜びとなります。自分が神に愛されていると信じることができるなら、揺るぎない人生を歩むことができます。また家族を愛することも教えられました。
上に掲げた幸いは、神との交わりに生きるから与えられるものと私は考えます。交わりに生きるとは、そこには、やりとり、コミュニケーションがあります。愛すること、愛されることを生活の中で体験します。それが幸い、祝福となります。
人は罪深い面があります。つまり自分中心に物事を考え行動するという面があります。その場合、人は相手の心を考えるより、相手が自分の心を大事にすることを求めます。神との交わりに歩もうとするとき、神の御心を大切にすることが必要となります。愛するとは、相手の心を大切にすることです。神の御心を大切にするようになるには、自分中心の心、自分第一の心が変えられる必要があります。そのためには聖書を読み、神がいかなる方かを知り、神の御心を知り、それを大切にするようにすることが大切となります。それは聖霊の導きにより可能となります。
神との交わりに生きる人、神の御心を大切にすることができる人は、夫婦関係、親子関係において、相手の心を大切にすることができる人です。神との交わりに生きない人、神との交わりを知らない人は、結局、自己中心になってしまいます。
神との交わりに生きる中で幸いな歩みをする、それが救われて生きることだと私は考えています。