ペトロの手紙一 1:18~19
知ってのとおり、あなたがたが先祖伝来のむなしい生活から贖われたのは、金や銀のような朽ち果てるものにはよらず、きずや汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです。
私は若い日、むなしさを覚えていました。どうしたらむなしさを克服できるかと色々試みましたが、解決は与えられませんでした。ある時、そのためなら死んでもいいと思えるようなことをしたいと願ったことがあります。そのようなものがあれば、むなしさに打ち勝つことができると考えたのです。
ある時、教会の礼拝に誘われ、紆余曲折ありましたが、洗礼に導かれました。このペトロの手紙の中に、空しさからの救いについての記述を見つけたときは、うれしかったです。
口語訳聖書の伝道の書、新共同訳聖書ではコヘレトは、そのテーマは「空しさ」です。口語訳聖書では「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」、新共同訳聖書では「コヘレトは言う。なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」とあります。昔から人は空しさを感じてきたのだと思います。ペトロの手紙一にも「先祖伝来のむなしい生活」とあります。
なぜ人は空しさを感じるのでしょうか。神から離れて生きるから空しさが生じる、それが聖書の答えだと思います。人が神にかたどって、神に似せて造られたのは、人が神を信じて、神との交わりに生きるためであると考えます。つまり神との交わりに生きる、それが神に創造された人間の本来の生き方であると聖書は告げています。この道を外れるから、空しさが生まれるのだと思います。
空しさから救われるのは、「金や銀のような朽ち果てるものにはよら」ないとあります。若い日の私は、何をしたら、何を得たら空しさから救われるのかと色々取り組みましたが、空しさからの救いはありませんでした。聖書を知らなければ、神との交わりに生きることを知ることはなかったのです。
空しさから私たちを救うのはキリストの血であると書かれています。血、それはキリストが自分の命を犠牲にしたことを意味しています。つまりキリストは十字架で人を罪から贖ういけにえとして、死んだことを意味します。キリストは人を救うために自らの命を犠牲にしました。そこにはキリストの私たちへの愛があります。人を神から離れさせるもの、それは罪です。罪からの救いこそ、空しさからの救いです。罪からの救いは神との交わりを目指します。さらに言えば、神に愛され、神を愛する、そこにむなしさから解放された命豊かな歩みがあります。