最後の審判は、この世の終わりの出来事ですが、聖書によれば、神による創造という始まりがあります。この創造を抜きに終わりを考えることはできないと考えます。
たとえば創世記によれば、神は人間をご自身に似せて、創造されたとあります。
創世記 1:26~27
神は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された
これはどういうことでしょうか。世の終わりの最後の審判と神の似姿に人が創造されたことは関係があると思います。神の似姿に人間を創造した神には、人間に対する計画、意図があります。つまり神の似姿に創造された人間には、神を映し出すという役割があります。人間がその生き様によって神を映し出すとき、人は神の栄光を現します。ここに人間を創造した神の目的があります。そして人が神の栄光を現すとき、それは人の栄光となります。
使徒パウロがローマの信徒への手紙3章で次のように語ることは重大です。
ローマ 3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、
人は罪を犯したため、神の栄光受けられなくなったとあります。人間は罪を犯すとき、神を映し出し、神の栄光を現すことに失敗します。罪を犯す人間の姿を見て、神を思い、神をたたえる人がいるでしょうか。神の栄光を現すことに失敗した人間は、神の似姿としての自分の栄光を現すことにも失敗したのです。神からすれば、とても残念なことです。
旧約聖書、新約聖書には人間の罪が描かれています。神は救い主イエス・キリストをこの世に送り、人間を罪から救いました。言い換えると人間は神の似姿に向かって回復され、神の栄光を映し出す者とされるのです。罪から救われた人間は神の栄光を映し出すという人間の本来の姿へ回復されます。神はすべての人類にイエス・キリストによる救いを提供しています。
すると最後の審判のとき、私達はこの救いを受け取って神の栄光を現すという人間が創造された目的を果たしたのか否か、神に裁かれることになると考えることができます。どうでしょうか。