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隠退牧師 holala によるブログ

最後の審判を信じる(1)

 聖書は最後の審判について語ります。主イエスご自身マタイ福音書25章で語っています。

マタイ 25:31~33
 「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。
そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。

 右側に分けられた人は、永遠の命にあずかり、左側に分けられた人は永遠の罰を受けるというのです。最後の審判に言及していると思える他の聖書箇所を紹介します。

ローマ 2:16
そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

コリント二 5:10
なぜなら、わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです。

ヘブル 9:27
また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、

 かつて私が牧師をしていた教会の礼拝で、また今出席している教会の礼拝で、使徒信条が告白されます。使徒信条には以下の言葉があります。

・・・・
三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、
全能の父なる神の右に座したまえり、
かしこより来たりて、
生ける者と死ねる者とを審きたまわん。

 現代人としては最後の審判を信じるのは簡単ではありません。代々の教会は、使徒信条を自分たちの信じる事柄を表明しているものとしてこれを告白してきました。ですから自分がイエス・キリストを信じ、教会に連なり信仰者として生きていくなら、最後の審判を信じるのが道理なのです。

 しかしこの世に終わりが来る、キリストが今一度この世界に来られる、そしてすべての人間に対する審判が行われると聖書が告げるとき、そう簡単に信じることはできません。今この世に生きている人間の常識的感覚からいうと信じがたいのです。だからといって、信じなければならない、と自分に言い聞かせても信じることは簡単ではありません。信仰は神の賜物ですから、神の恵みとして信じることができるようになります、というのは正論だと思いますが、なかなか信じることができないのも事実だと思います。

 私自身は信じたいと思っています。いや信じています。信じたいと信じるの中間にいます。

 信じるために、聖書に聞くことが大切だと考えています。最後の審判は、世の終わりの事柄です。それなら世の初めの事柄についても目を向けることが必要なのではないかと考えます。終わりがあるなら始まりがある。始まりを考えてこそ、終わりを理解することができると考えます。信じることができると考えます。

野菊 近くの里山で