老いを生きる中で、聖書が語る終末の事柄に自然と心が向いていきます。聖書は死後の希望を語りますが、その希望が切実になってきます。その時に支えとなるのが、聖書の言葉です。
へブル 11:9
信仰によって、アブラハムは他国に宿るようにして約束の地に住み、同じ約束されたものを共に受け継ぐ者であるイサク、ヤコブと一緒に幕屋に住みました。アブラハムは、神が設計者であり建設者である堅固な土台を持つ都を待望していたからです。
アブラハム、イサク、ヤコブは幕屋に住み、神が設計し、建設される都を待望していたとあります。
へブル 11:16
ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。
この個所では、天の故郷を熱望していたとあります。このことは創世記には書かれていません。しかしへブル人への手紙の著者は、彼らが天の故郷を熱望していたと書きます。アブラハムは信仰の父と呼ばれます。信仰の父が天の故郷を目指すなら、私も天の故郷を目指していいのではないかと考えます。故郷はふつう、自分が生まれ育った場所を指します。しかし天の故郷はこの地上にある場所ではなく、私が生まれ育った場所ではありません。しかし次のような聖句があります。
コリント一 8:6
わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。
私たちは神から出て、神のもとに帰るとあります。この聖句は、私たちが天の故郷から地上にきて人生を送り、そして天の故郷に帰ることを教えてくれます。死ぬとは、天の故郷に帰ることだと受けとめることができます。私は東京育ちで、東京の都市としての変化はすさまじいものがあり、故郷を思わせるものは何もありません。生まれ故郷のある人はうらやましいなと思いますが、帰るべき天の故郷に憧れを抱くことができることは幸いなことだと思います。