クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

最後の審判を信じる(3)

 最後の審判は、この世の終わりの出来事ですが、聖書によれば、神による創造という始まりがあります。この創造を抜きに終わりを考えることはできないと考えます。
 前回は創世記の人間の創造に言及しましたが、今回は、新約のエフェソの信徒への手紙です。

エフェソ 1:4~5
天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

 このエフェソの言葉に目がとまるようになったのは、牧師になってから何年もたってからです。神さまには人間に対する計画があったのです。キリスト者である私たちを聖なる者、汚れのない者にしようとされたこと、キリスト者である自分自身が、聖なる者、汚れのない者になるようにと神に選ばれたということ、うれしいような、しかし同時に畏れを覚えます。果たして自分はどのような信仰者になっているのか。

 私たちは自分の力で自分を救うことはできません。自分が犯した罪に対する神の怒り、神の裁きから逃れうる手段を私たちは持っていません。私たちは、自己中心的で神様の御心を思うこと少なく、罪深い者です。そんな私たちをイエス・キリストを信じた故に、義としてくださり、さらには聖なる者、汚れのない者へ変えてくださる救いの恵みを与えられているのに、どれほどこの恵みに感謝し、この恵みを受け取って聖なる者に近づこうとしているのかと我が身を振り返ります。

 聖なる者とは、聖人のように聖く正しく、立派な信仰者になることではないと考えます。神に選ばれ、神の子とされた信仰者として、キリストに似た者を目指す人が、聖なる者と考えます。少しでも主イエスに従う人になる、それが私の目標です。100点満点で5点取れればいいと私は思っています。大切なことはどれほど達成したかではなく、目標にいつも忠実であることと考えます。

 最後の審判を信じるから、信仰者としても自分の歩みを真剣に考えるように導かれます。自分にできる最善を尽くして信仰に歩み、神の審判の前に出たいと思います。

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