クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

最後の審判を信じる(4)

 最後の審判という教えは聖書に書かれていますが、現代人には奇異に感じます。この世界に終わりが来る、キリストがこの世界にもう一度おいでになる、そして最後の裁きを行う。SFのような、ファンタジーのような気がします。

 人は死後、審きを受けるという教えは、キリスト教だけでなく、他の宗教にもあるようです。仏教では、人は死んだら閻魔大王の前に出て生前の行為が裁かれると聞いたことがあります。これらの教えは、生きているときに善を行い、悪を行わないように人間を導く教えとして受けとめられたように思います。聖書の最後の審判にも、信仰者として身を正すように教えるという面があることは確かです。しかし聖書はそれ以上のものがあると教えているように思います。

 それは最後の審判を人間の創造と関係づけて考えることができるからです。神はご自身に似せて人間を創造されました。人間が罪を犯すこともご存じで、救い主キリストを世界に送ることも考えた上で神は世界を創造しました。時間が創造され、歴史が生まれました。

 ご自身に似せて人間を造られた神は、人間との交わりを願う神でした。神は人間に自由を与えました。自由を持つ者同士の交わりを支えるのは愛です。旧約聖書は、人間が神との交わりに生きるよりも自分の思い通りに生きたことを明らかにしています。人間は神に対して罪を犯して生きています。自己本位に生きている人間の世界がどのようなものかは、今の世界を見れば分かります。決してよい世界ではありません。

 神は救い主キリストを遣わし、人間が神との交わりに生き、神に似せて造られたゆえ、愛に生きることを願いました。神は福音を宣べ伝える教会の働きを通して、この世界が少しでもよい世界、神の国に近づくことを願いました。

 そこでイエス・キリストを信じて信仰者になったキリスト者はいかに生きるべきなのか。それは神が当初願ったとおり、神に似せて造られた人間として、神との交わりに生きること、そして愛と平和を目指して生きることです。

 神は世界を創造し歴史が始まりました。そして歴史の終着点は神の国です。神は神の国に入る人とそうでない人を区別します。それが最後の審判です。だれが神の国に入ることを許されるのでしょうか。罪を犯す者は神の国にふさわしくありません。しかしキリストを信じた人は、神によって義とされましたから、神の国に迎えられるという約束を与えられました。これは神の恵みによることであり、憐れみ深い神の愛からでたことです。

 神の国に迎えられるという約束をあたえられたキリスト者はいかに生きたらよいのでしょうか。神を愛し、神の教えに従って生きます。でもそれは、神の国に入る資格を得るためではありません。むしろ恵みによる救いへの感謝の応答です。「あなたは私の救いに感謝して生きたか」、最後の審判で神はこのように問うのではないでしょうか。これは私の考えです。

 最後の審判を考えるとき、キリスト者として真剣に生きるべきことを教えられます。真剣に生きることを考えるとき、最後の審判の教えも受け入れ信じることができるようになるように思います。

ムラサキシジミ(蝶) 散歩道