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隠退牧師 holala によるブログ

説教 義とされる信仰


ローマの信徒への手紙 4章1~5節 18~25節
 
1.はじめに
 
→前回の説教で、私たちは信仰によって義とされることをお伝えしました。
イエス・キリストを信じる人、イエス・キリストによる罪のあがないを信じる人は、
神の目に正しい者とされること、
神の前に正しい者である、それがキリスト者の立場であり、身分であることをお伝えしました。
この立場、身分は取り消されることがありません。
ユダヤ人は律法を実践してこそ、神の前に正しい者とされるという考えを持っていました。
しかしパウロはこの4章で信仰の父と呼ばれるアブラハムを引き合いに出して、
律法の行いではなく、信仰によって義とされることを明らかにします。
 
2.信仰とはなにか
 
→信仰によって義とされるという教えは、
旧約聖書においてすでに教えられている、
それがパウロの聖書理解です。
そこでパウロは信仰の父アブラハムのことを語ります。
このアブラハムの信仰の特徴は、ヘブライ人への手紙11章1節で教えられています。 

ヘブライ11:1
信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

 →このヘブライ人への手紙の言葉は、信仰の特徴を明確に教えています。
信仰とは望んでいる事柄を確信することだというのです。
何を望んでいるかというと神の約束の内容です。
この神の約束は必ず実現すると確信すること、それが信仰だというのです。
また信仰とは見えない事実を確認することとありますが、同じことです。
つまり神の約束が実現する光景をあたかも見たかのように確認することだというのです。
アブラハムは、まさにこの信仰に生きた人でした。

→イエス・キリストを信じる人、
イエス・キリストによる罪のあがないを信じる人は、
神の目に正しい者とされる、これも神の約束です。

 
→今日の聖書の4章3節を読みます。

ローマ 4:3
聖書には何と書いてありますか。「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とあります。 

→この3節の言葉の意味を理解するために創世記12章を読みます。 

12:1~2
主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。
わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。 

→神はアブラハムに約束と命令を語りました。
まず約束です。

  • わたしはあなたを大いなる国民にする
  • あなたを祝福し、あなたの名を高める

→その約束の実現を期待するなら、
実現に向かって行動することが必要です。
神の約束は待っていれば実現するというものではありません。
なすべきことを神はアブラハムに指示しました。
「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。これに従えばいいのです。
この神の約束が与えられたのは、アブラハムが75歳の時です。
そして彼には子供はいませんでした。
75歳で子供がいないアブラハムに、あなたは大いなる国民になると神は約束したのです。
そしてアブラハムは神の示す地に向かって旅立ちます。
彼は75歳、もう老人です。
それなのに、住み慣れた場所を離れ、行き先を知らずに旅立ったのです。
これは冒険、信仰の冒険といえるのではないかと思います。
私たちも信仰の冒険に招かれているのかもしれません。
 
→そして何年かが過ぎました。
ある日、神がアブラハムに語りかけました。 

創世記 15:1
これらのことの後で、主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ。「恐れるな、アブラムよ。わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは非常に大きいであろう。」

→あなたの受ける報いは大きい。
これは、「わたしはあなたを大いなる国民にする」との約束の繰り返しと言ってよいと思います。
するとアブラハムは言います。 

15:2
アブラムは尋ねた。「わが神、主よ。わたしに何をくださるというのですか。わたしには子供がありません。家を継ぐのはダマスコのエリエゼルです。」 

→アブラハムは言うのです。私はまだ子供を授かっていません。
このままでは、私が死んだら、私に仕えるエリエゼルが私の家を継ぐことになります。
すると神はいいます。 

15:4~5
見よ、主の言葉があった。
「その者があなたの跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が跡を継ぐ」。
主は彼を外に連れ出して言われた。
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい」。
そして言われた。「あなたの子孫はこのようになる。」 

→アブラハムが空を仰ぐと空には沢山の星が輝いています。
そのとき、アブラハムは、「主を信じた」とあります。
空に輝く無数の星を見て、彼の子孫が大いなる国民になる光景を確認したのです。
そして「主を信じた」のです。
主を信じた、言い換えると主なる神の約束を信じたのです。
すると主なる神は、それを彼の義と認められたとあります。
神はアブラハムの信仰を「よし」と認め、
彼を義と認めました。
ヘブライ人への手紙のことばを思い出してください。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。
アブラハムはこの信仰に立っていたのです。
 
3.義とされる信仰
 
→アブラハムには10歳年下の妻がいました。
神とアブラハムのやりとりを夫のアブラハムから聞いたサラは、
自分が子供を産める年齢ではないので、
自分に仕える女、ハガルによって夫の子を得ようとしました。
そしてアブラハムはハガルによって自分の子を授かりました。
イシュマエルです。
これでアブラハムは、自分には子が与えられたし、
神の約束はその実現に向かって動き出したと考えたようです。
このとき、アブラハムは86歳だったと創世記16章に書かれています。
 
→時が流れ、アブラハムが99歳になりました。
すると神が彼に現れ言うのです。 

創世記 17:1
「わたしは全能の神である」。 

さらに神は言います。 

17:16
「わたしはあなたの妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。わたしは彼女を祝福し、諸国民の母とする。諸民族の王となる者たちが彼女から出る」。 

→これを聞いたアブラハムはどう反応したのでしょうか。 

17:17
アブラハムはひれ伏した。しかし笑って、ひそかに言った。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。

 アブラハムの笑い、それは喜びの笑いではなく、神はなんて愚かなことを言うのだという嘲りの笑いです。
 
4.アブラハムの信仰
 
→ローマの信徒への手紙に戻ります。 

4:19~20
そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。
彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。

→これを読むと創世記の内容とパウロの語ることは食い違っているのではないかと思います。
創世記では、アブラハムは神の約束をあざ笑ったのです。
つまり神の言葉を信じなかった、疑ったのです。
しかしパウロは書きます。
「彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく」。
つまりアブラハムは不信仰に陥って疑うことはなかったのです。
この食い違いをどう説明したらいいのでしょうか。
 
→疑うことなく素直に信じることができるなら、それは幸いなことです。
だからといって私は、疑いを持つことは不信仰であるとは思いません。
私は信仰には疑いが伴うことがあると考えています。
疑いはあっても、それでもなお信じようとする、それも信仰だと私は考えます。
聖書を読み、その疑いを少しずつ確信に変える努力を大切にする、
それも信仰だと私は考えます。

→神の約束が与えられたとき、信仰はそれを信じます。
実現すると信じます。
しかし約束の内容によっては、
「本当かな」という疑問が心の片隅に生じることがあります。
少なくとも、私には疑問が生じることがあります。
たとえば、キリスト者は死んだら神の国に迎えられるとの約束を与えられています。
この約束をキリスト者は希望にしています。
でも「人は死んだら、永遠の眠りに入り目覚めることがない」のではないか。そんな思いが私の心の片隅にあります。
 
→不信仰に陥って疑うことと信仰に生きようとして疑うことは違います。
不信仰に陥るのか、信仰に生きようとするのか、はっきり違います。・
たしかにアブラハムは、笑いながら心の中で言いました。
「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」。
神の言葉をあざ笑ったことは確かです。
では彼は不信仰に陥って神の約束を疑ったのでしょうか。
私は違うと思います。
信仰と疑いが同居する中で、信仰が弱まることなく、強められたのだと思います。
疑いは、信仰を強めるためにあると言うことができます。
私は、神の国を歌う賛美歌を歌い、神の国について言及する聖句を読み、
疑いを確信に変える努力をしています。
 
→創世記18章にこう書かれています。
神の使いがアブラハムに現れて言います。 

創世記18:10
「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」。

→この神の使いの言葉を陰で聞いていたサラは、ひそかに笑いました。あざけりの笑いです。 

創世記 18:13
主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」。 

→私はこの時、アブラハムは、はっきりと信仰に立ったと思います。
「主に不可能なことがあろうか」。
この言葉は彼の心に突き刺さり、彼の信仰が強められたと想像します。 

ローマ 4:21
神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。 

→パウロの言葉のように、アブラハムははっきりと神の約束の実現を確信しました。
パウロはそのことを18節でこう語ります。 

4:18
彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、「あなたの子孫はこのようになる」と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。 

→「彼は希望するすべもなかった」とあります。
「すべ」とは、方法、手段のことです。
アブラハム夫婦の年齢を考えれば、子が授かるという希望を持てる根拠は何一つなかったのです。
しかしアブラハムは、なお「望みを抱いて信じた」のです。
「神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だ」と信じたからです。
不可能と思えることでも神は約束したことを実現できる方である、
それが望みを生み出したのです。
そしてアブラハムは信じたのです。
23節で、「それが彼の義と認められた」とあります。
神は神の約束を信じるアブラハムの信仰を義としたのです。
神は神の約束を信じるアブラハム自身を義、正しい者としたのです。
神さまにとって正しい人間とは、たとえ不可能に見えても、神を信じ、神の約束を信じる人です。
神の律法、神の教えをどれほど実行できているのか、
それはその人の正しさとは関係ないのです。
 
5.わたしたちのために 

ローマ 4:23
しかし、「それが彼の義と認められた」という言葉は、アブラハムのためだけに記されているのでなく、わたしたちのためにも記されているのです。

→パウロは、アブラハムの話をしました。
それは、わたしたちのためなのだと言うのです。
そしてさらに語ります。 

ローマ 4:24
わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。 

→主イエスの復活を信じるなら、私たちも義とされるとあります。
これはキリストが復活したという出来事が事実だと信じることを意味するだけでなく、
キリストの復活が約束する事柄を信じることといってよいと思います。
キリストの復活は、私のための出来事なのです。
ローマの信徒への手紙6章にキリストの復活が約束することが語られています。
キリストを信じて洗礼を受けた者は、キリストに結ばれます。
その結果として、

  1. キリストと共に死に、キリストが復活したように新しい命に生きる
  2. もはや罪の奴隷になることなく、罪から解放されている。

→キリストの復活を信じる人には、
新しい命に生きること、罪から解放されることが約束されているのです。
この約束が私たちの前にさし出されているのです。
これを信じる人を神は義とするというのです。
神は約束されたことを実現できると信じる、
たとい人間の目には不可能と思えても信じる、
この信仰を神は義とするのです。
キリスト者には、あたらしい命に生きる、
そして罪から解放される、との約束が与えられています。
神はこの約束を信じる者を義なる者、正しい者と認めてくださるのです。
さらにこの約束に生きるなら、
キリスト者の立場が、身分が義であることは確かなものとなります。
 
→アブラハムは、 神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していました。
このアブラハムが信仰の父です。
このアブラハムの信仰を模範とする人、
その人を神は義とされるのです。