老いの中にあって、過去を振り返るのも時間の過ごし方としていいのではと思うようになりました。神さまの導きを感謝し、神さまをたたえることができるなら、振り返りは有意義だと思いました。それで、私の信仰を支えた聖句を振り返りたいと思いました。今回は、ペトロの手紙一にある聖句です。
ペトロ一1:24~25
「人は皆、草のようで、/その華やかさはすべて、草の花のようだ。草は枯れ、/花は散る。しかし、主の言葉は永遠に変わることがない」。これこそ、あなたがたに福音として告げ知らされた言葉なのです。
私が信仰を求めたひとつ理由に死の恐れから解放されたいとの願いがありました。死の恐れは、私に生きることの空しさを覚えさせました。どうせ死ぬ、それなら何をしても空しいという思いです。面白いこと、楽しいこと、生き甲斐を感じるようなことを求めても、それは一時の満足、喜びでしかないと感じていました。
私自身は伝道礼拝に誘われ、それがきっかけで教会に行くようになり、紆余曲折ありましたが洗礼を受け、永遠の命の希望、神の国に迎えられるとの希望を与えられました。知識としての希望です。キリスト教はこういう希望を教えているという知識としての希望です。これで問題が解決したかというとしませんでした。恐れの感情は、消えませんでした。知識としての希望は、真の希望ではありません。
そんな私が導かれたのは、世の中で最も確かなものは何かという問いでした。死は絶対の支配者で私を恐れをもって支配する、これは真理なのか。聖書には次のような言葉があります。
ヘブライ人への手紙 2:14~15
ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、
死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
聖書は、イエスは死の恐怖に捕らわれた人を解放する方であると告げます。聖書によれば私は死の恐怖からキリストによって解放される、これは真理なのか。私が生きていくうえで、何が真理なのか、その真理に立って生きていきたいと思いました。その時私は聖書を真理にしようと決めました。
それ以降、私は聖書を審理とする信仰に生きる努力を始めました。聖書が真理であるとの信仰が身についてこそ、真理は力を発揮します。おかげで恐れから解放され、平安を与えられました。
聖書が真理、主の言葉こそ永遠に変わることがない真理、この真理に立って生きればよいと教えられ、私は平和を得ました。ペトロ一の言葉は、私にとって、真理となった最初の言葉です。