コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
私は洗礼を受けて間もなく夜間の神学校に行きました。昼間はサラリーマンとして働いていました。会社の近くにキリスト教の古書店があり、よく行きました。興味がありそうな書名の古本を買ってよく読みました。その中で印象に残った小冊子が『義認・聖化・栄化』(小島伊助著)です。
信仰者の救いについて、イエス・キリストを信じ、義と認められ、聖なる実を結ぶ生活をするようになる聖化、そしてキリスト者の成長の目標としてキリストに似た者となる栄化があることを知りました。信仰者は霊的に成長するものであることを教えられました。
超教派の集会に行き、いろいろな賛美があることを教えられ、リビングプレイズという賛美集とそれのCDを購入し、新しいワーシップソングに親しみました。その中に「栄光から栄光へ」という曲があります。CDで何回も聞き賛美しました。
栄光から栄光へと 私を変えて
栄光へと私を 変えてくださる
主と同じ姿に 変えられるまで
主は私を変えて 変えてくださる
クリスチャンとはこうあるべきだという律法主義的な説教を繰り返し聞いていると、私って罪深いダメなクリスチャンなのねと考える人が生まれます。そう語る人に何人も会いました。キリストの福音は、私たちを高みに引き上げてくれる福音であると確信したのは、このコリント二3章18節の言葉のおかげです。
だれかが、「じゃあ、あなたはどんな風に主に似た者となったの。私から見たあなたは普通のクリスチャンで、御子キリストにどこが似ているのかと思うわ」と言ったとしたら、私は反論はしません。こんなところが似ているよ、と証しをしようとも思いません。それは信仰の目で見ないとわからないからです。
地上の人生を歩まれたイエスを見て、誰が神の子と崇めたでしょうか。イエスの十字架に、栄光に輝く御子の姿を誰が見たのでしょうか。誰かが主と同じ姿に変えられつつあることは、神さまの目にははっきりしていると思いますが、人間同士では、なかなかわからないのではないかと思います。だから自分でもこれだけ主に似る者に変えられたなどとは、思わないようにしています。不十分な点はいくらでもあります。ですから、1%でも主に似た者となれているなら、それでよいと考えています。
主に似た者となるという点で、私が心がけているのは、神さまのみ心を大切に考え、御心に従順に生きる者となることです。具体的には聖書を読み、思いめぐらし、神さまの導きを得てそれに従うディボーションを30年近く続けてきました。今も続けています。以下の聖句も、同じ主旨の私を励ましてくれる聖句です。
フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。ヨハネ一 3:2~3
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
