クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

礼拝説教 恵みに立って生きる

2月9日に説教奉仕をしました。以下原稿です。読んでいただけるとうれしいです。

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聖書 ローマの信徒への手紙 5章1~11節
説教 恵みに立って生きる
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→今日もローマの信徒への手紙で説教します。
5章は大事なところなので、今日は2節を中心にしてお話しします。
ここでは神の恵みとキリスト者の誇りが語られています。
皆さんはキリスト者として何を誇りにしておられるのでしょうか。
今日も聖書に聞きましょう。

1.    恵みに立つキリスト者

→使徒パウロは、1~2節で信仰によって義とされた人について、3つのことを語ります。
まず、その人は神との間に平和を得ているとあります。
2番目に、その人は、今の恵みに信仰によって導き入れられているとあります。
3番目に、その人は、神の栄光にあずかる希望を誇りにしているとあります。
今日は、2番目と3番目についてお話ししたいと思います。

→2節はこうです。

ローマ 5:2
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、

→キリスト者は「今の恵みに信仰によって導き入れられ」とあります。
「信仰によって」とあります。
これは、私たちが信じるから、その結果として「今の恵み」に導き入れられというのではありません。
そうではなく、「今の恵みに導き入れられている」と信じるという意味です。
ですから、自分は今の恵みに導き入れられているという前提で信仰者は生きることになります。
あるいは、自分は今の恵みに導き入れられていると考えて生きることを意味します。
繰り返しますが、キリスト者とは神の恵みの中に導き入れられた人です。
キリスト者とは神の恵みに立って生きる人です。

→キリスト者とは、神の恵みの中に生き、
神の恵みによって生かされる存在です。
神の恵みによって生かされているなら、
なぜキリスト者は苦しみに出会うのかと反論する人もいるかもしれません。
パウロはそのような人に、次の3節で、
キリスト者は苦難を誇りにしていると語ります。
苦難を誇ることについては、来月お話ししたいと思っています。

2.信仰義認の恵み

→今の恵みに信仰によって導き入れられているとある恵みとはどんな恵みなのでしょうか。
3章24節を読みます。

ローマ 3:24
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。

→旧約聖書を読むと人が罪を犯した時、赦しを得るためにどうすべきか神は指示なさいました。
神は罪の赦しを得るためにいけにえを献げることを命じました。
これをあがないのいけにえと呼びます。
神は人間を罪から救うために、神の御子キリストを罪を贖ういけにえにされました。
本来なら罪を赦してもらう人間の方からあがないのいけにえを献げるべきですが、
神が人間に代わってキリストというあがないの犠牲を献げてくださいました。
人間はいけにえを献げる必要がなく、何もしないで、罪の赦しを受けることができる道が開かれました。
つまり神がキリストをいけにえとして献げてくださったのは、
私たちの救いのためだと信じるなら、
神はその人を義とします。信じる人を正しい者と見てくださいます。
人は義とされるために、何もする必要がないのです。
人は義とされるために、神の戒めを守る必要はありません。
神さまが、罪の贖いのいけにえを献げてくださったからです。
イエス・キリストを信じる人は神の前に正しい人である、これが恵みです。
この恵みの中に私たちは導き入れられているのです。

→しかし、キリスト者は現実の生活の中で、罪を犯します。
私たちは自分が罪を犯すゆえに、自分は罪人であると思うかもしれません。
でも私は自分が罪を犯すことは認めますが、自分が罪人であるとは思いません。
なぜなら神さまがキリストを信じる私を正しい者であると見てくださるからです。
私は神さまが私のことをどう思っておられるのかを大切にします。
だから私は自分が神の前に正しい者であると信じ、喜びます。
神さまがあなたは正しい者だ、と言ってくださるのに、
「いや私は罪を犯していますから、私は罪人です」というのは、
神さまに向かって、あなたは間違っていると言っているようなものです。
正しい者として下さる恵みを否定することになります。

→私たちは「あなたを正しい者とする」という神の恵みの中に導き入れられているのです
私たちはこの恵みに立って生きる者です。
そして忘れてはならないのは、
このような恵みを与えてくださる神が、愛の神、恵みの神であるということです。
そのことを確認したいと思います。

3.神の愛、神の恵み

ローマ 5:6
実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった。

→キリストは不信心な者のために死んで下さいました。
不信心な者とは、神を信じない人のことです。
この人は罪を犯して生きています。
私たち人間は、罪のゆえに神の怒りを受け、神の罰を受けるべき者です。
しかしキリストは、私たちの罪をその身に負い、私たちの代わりに神の怒り、
神の罰をその身に受けて下さいました。
そして神は、キリストを信じる者を正しい者として、ご自身との交わりに招かれます。

→神の愛は、神の御子イエス・キリストを犠牲にしても、人間を救おうとする愛です。
神は御子を惜しまないのです。
皆さんは、だれか困っている人を助けるために、自分の子供を犠牲にすることができるでしょうか。
たとえばある犯罪者が人質を取って立てこもっているとします。
あなたの隣に、悲しみとなげきの中にいるその人質の親がいたとします。
その人の悲しみと嘆きがあまりにも大きいからといって、
あなたは自分の子供を身代わりの人質に差し出すことができるでしょうか。
できないと思います。
しかし神は、人を救うために御子を犠牲にします。
御子を犠牲にしても罪人を救おうとする、それほどまでに神は人間を愛されるのです。

ローマ 5:7~8
正しい人のために死ぬ者はほとんどいません。
善い人のために命を惜しまない者ならいるかもしれません。
しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、
神はわたしたちに対する愛を示されました。

→パウロは、正しい者のために自分の命を犠牲にする人がいるのかと問います。
そんな人はいないと断言します。
善い人のために自分の命を犠牲にする人がいるかと問います。
善い人のためなら、自分の命を惜しまない人はいるかもしれないと答えます。
さらに罪人のために自分の命を犠牲にする人はいるのか、とは書かれてはいません。
書かれていませんが、暗黙の内に尋ねていると思います。
そして答えは、「そんな人はいません」です。
罪人のために自分の命を犠牲にするなんて、ありえません。

→しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、
キリストがわたしたちのために死んでくださったのですとパウロは語ります。
罪人のために自分の命を犠牲にする人なんかいないのです。
罪人の更生のために奉仕する人はいるかもしれませんが、
罪人のために自分の命を犠牲にする人はいません。
しかしキリストは罪人のために死んで下さいました。

→神の愛は、罪人を救う愛です。
罪人は罪を犯しているのですから、罰せられるべき人であり、
神に見捨てられても仕方がありません。
しかし神は罪人を救おうとするのです。しかも御子を犠牲にするのです。
御子を犠牲にしても、罪人を救う神の愛は、
人間の常識では考えられない愛です。
神のとてつもなく大きい愛、深い愛です。
他者のために自分の命を犠牲にできない人間には、
この神の愛の大きさ、深さは理解できません。
私たちはこの神の愛の大きさ、深さを信じ、
この神の愛が自分に向けられていることを信じ、神をたたえます。

→さらに、イエス・キリストを信じる人間を義としたことを
神が取り消すことはありません。
神の愛は揺るがないのです。
イエス・キリストを信じる人が罪を犯したらどうなるのでしょうか。
義としたことを神が取り消しても不思議ではありません。
しかし神は取り消しません。なぜ取り消さないのでしょうか。

→そこには、人間を罪から救うという、断固とした神の決意、神の愛があるからです。
それはどこで分かるのでしょうか。

4.罪からの救いの恵み

→パウロは1章16節でこう書いています。

ローマ 1:16
わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。

 
→福音は、信じる者すべてに救いをもたらす神の力です。
福音によってもたらされる救い、これも恵みです。
この救いとは、罪からの救いです。
以前説教で、罪からの救いについて、
創世記3章のアダムとエバが罪を犯した聖書箇所からお話ししました。
罪からの救いを3つの点からお話ししました。

→第一は、救いとは罪に対する神の怒りを受けないですむようになることです。
これはイエス・キリストを信じ義とされることによって実現します。

→二番目は、罪を犯すように働きかける力からの救いです。
アダムとエバの場合、ヘビが彼らを罪へと誘いました。
私たちに罪を犯すように働きかける力が現実にあり、
私たちはその力に負けて罪を犯してしまいます。
それゆえ、罪を犯すように迫る力からの解放、自由も罪からの救いです。
この救いについては、パウロはロマ書の6章に書いています。

→三番目は、人の心の汚れです。
罪を犯した結果、人の心は汚れてしまいました。
アダムとエバは、なぜ取って食べてはいけない木の実を食べたのかと神から問われた時、
正直に自分の罪を認めず人のせいにしました。
責任転嫁をし、彼らの心は汚れてしまいました。
正直さを失ったのです。
それゆえ、心が罪の汚れから清められることも罪からの救いです。
これは罪の支配から解放されたら、実現します。

→以上のように、これらの罪からの救いを与えられること、これも恵みです。
罪から救われたキリスト者はどうなるのでしょうか。

ローマ 8:3~4
肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。
つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、
その肉において罪を罪として処断されたのです。
それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。

→説明は省略しますが、
「霊に従って歩むわたしたちの内に、
律法の要求が満たされるためでした」とあります。
つまり神は、聖霊の導きに従うキリスト者が
律法を守ることができるようにしてくださったのです。

→キリスト者を神の戒めを守る者にするのが神の救いの計画です。
神の前に神に従って生きる、これが本来の人間の姿です。
イエスも十字架の死に至るまで神に従順に歩まれました。

→神はキリスト者が罪を犯しても、
キリスト者を正しい者と見なすとの宣言を取り消しません。
なぜなら神は、キリスト者を信頼しているのです。
即ち、キリスト者が聖霊の導きを得て、神の戒めを守るように努力すると
神は信頼しているのです。

→そして神の戒めを守るようになったキリスト者、
神に対して従順になったキリスト者、
それはキリストのように歩むキリスト者です。
キリストを模範とするキリスト者です。
キリスト者はキリストに似た者に変えられていく歩みをします。
キリスト者はキリストに似た者に変えられていく歩みをします。

5.キリスト者の誇り

→次は、キリスト者の誇りについてです。
2節後半には、神の栄光にあずかる希望を誇りにしているとあります。
キリスト者は神の栄光にあずかる希望を誇りにするというのです。
私たちはキリスト者としての自分自身を誇ることはできません。
自分には誇ることのできるものは何もありません。
しかしキリスト者は、神の栄光にあずかる希望を誇りにするとあります。

→この神の栄光にあずかる希望を考える時、
ロマ書3章23節を見ることは必要です。

ローマ 3:23
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、

→「神の栄光を受けられなくなっている」とあります。
新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、この箇所はギリシャ語では
「神の栄光に欠如した」となっています。
人間は本来持っていた神の栄光を失ったというのです。
神の栄光を受けられなくなったというより、失ってしまったのです。
どういうことでしょうか。

→創世記によれば人間は神に似せて造られました。
人が神に似せて造られたとは、言い換えると
人を見ることは神を見ることにつながるのです。
人を見ると、神を知ることができるのです。
つまり人間は本来、神を映し出す存在、神を証しする存在なのです。
しかし罪を犯すことによって、神を映し出すことができなくなった、というのです。
もともと持っていた栄光を失ったのです。
それはこの世界の現実を見れば分かります。
争いと混乱に満ちた世界を見て、神がおられると誰が思うでしょうか。
人間が平和の神、恵みの神、愛の神を映し出しているとは到底言うことができません。

→そこで2節。神の栄光の希望を誇るとあります。
この希望とは、神の栄光を映し出すという人間の栄光の回復を意味します。
キリスト者は、神の栄光を映し出す存在になれるとの希望を持つことができ、
この希望のゆえに、誇りを持てるというのです。
パウロはキリスト者が神を映し出すというより、
キリストの似姿に変えられ、
キリストを映し出すキリスト者の栄光を考えています。
キリスト者は御子キリストの似姿に変えられつつ
キリストを映し出す存在に回復されます。
キリストを映し出すという誇りをキリスト者は持つことができます。

 ロマ書の8章30節にこうあります。

ローマ 8:30
神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

→神はキリストを信じる者を義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになりました。
御子キリストを映し出す栄光、御子キリストの似姿に変えられる栄光です。
私たちは、罪から救われ、神に従う歩み、キリストに従う歩みを始めました。
その歩みは御子キリストに似た者になる歩みです。
御子に似た歩みをすることによって、神の栄光を現すのです。

→私たちが御子の姿に似た歩みをしても、
そこに輝く栄光を人々は見ることはできないと思います。
人々が見るのは、一人の信仰者が信仰に生きている姿だけです。
信仰をもたない人が信仰者の歩みを見ても何も感じないでしょう。
イエスが地上の生涯を歩んだ時、
そこに父なる神の御心に従順に歩む神の御子の栄光を見た人はいません。
人々の目に映ったのは、十字架で死ぬみじめな人間の姿でした。
私たちが御子に従い、御子の似姿を目指して生きても、
それは目立つ歩みになるわけではありません。
目立たなくても、私たちは御子の姿に変えられていく歩みを続けます。
このことを告げる聖句があります。

コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。

→聖霊の導きによって、私たちは御子の姿に変えられる歩みをします。
それは地上の生涯の間、続けられる歩みです。
そして神の国に迎えられた時、完全に御子の姿に似た者とされ、
私たちは栄光に輝く自分を見ることができます。

フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。 

→自分はもう年をとったから、御子の似姿に似る歩みをするなんて、もうできない、
今から始めるには年を取りすぎたと人は言うかも知れません。
しかし待って下さい。
マタイ20章にぶどう園の労働者のたとえがあります。

20:1~2
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、
ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。
主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

→この主人は、昼の12時にも労働者をやとい、
午後の3時、午後の5時にも労働者を雇いました。
そして夕方、6時頃でしょうか、この主人は労働者に報酬を払いました。
朝早くから働いた人にも、夕方の5時から働いた人にも同じ
一デナリオンが払われました。
夕方の5時から働いても、朝から働いても同じ報酬が支払われました。

→夕方の5時から働いても同じ報酬を受け取ることができました。
5時から働く、それは老いたキリスト者を指していると考えることができます。
キリストに似る歩みを目指すことにおいて、遅すぎることはありません。
大事なのは、神の救いの恵みを受けて、少しでも御子キリストの似姿になる歩みをすることです。
栄光の望み、それは御国に迎えられた時に
栄光に輝く御子と同じ姿になることを望むことです。
キリスト者は御子と同じ姿になることを誇りとするのです。
それがまことのキリスト者です。
神の恵みによって生かされるキリスト者です。