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隠退牧師 holala によるブログ

苦難を誇る

 私は今、黄斑円孔になる兆候があり、眼科に行っています。なおる可能性もありますが、黄斑円孔になれば手術が必要となります。黄斑円孔というのは網膜の黄斑という部分に穴が空き、視力が低下し、視野の中心がぼけるという兆候が起きます。この兆候が現実に私の目に現れています。以前、右目に黄斑円孔があることが分かり、手術をしました。今度は左目に兆候が現れており、放置すれば手術となると思います。今は経過観察をしています。やがて手術をすることになるかもしれません。

 ロマ書を読んでいて、次の聖句を読み、思いめぐらしています。

ローマ 5:2~3
このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。

 苦難をも誇りとしますとあります。苦難を誇りとするなんて常識では考えられません。しかし使徒パウロは、キリストを宣べ伝える中でさまざまな苦難、迫害を経験しました。その彼が、苦難を誇りとすると語ります。なぜ苦難を誇るのか、その理由は次の通りです。

ローマ 5:3~5
わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、
忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。
希望はわたしたちを欺くことがありません。

 なぜ苦難を誇ることができるのか、パウロは理由を語ります。簡単に言えば、苦難はキリスト者をよりキリスト者らしくするというのです。そのことを知っているというのです。

 眼の手術、それは苦難ではありません。病気を癒やす手段です。自分に必要なことです。でも手術を受けることを考えると憂うつになるのです。この手術を受けた後、何日かうつ伏せの状態で過ごす必要があるというのです。これが憂うつの種です。

 苦難は通常避けたいと人は考えます。病気は、苦難と考えることもできます。するとこれを誇ることができるのかという問いが生まれます。そこで色々考えます。手術に対する拒否感がありますから、これを誇る気持ちにはなりません。でも「いやだ、いやだ」と言っていても心は晴れません。

 そこでどうするか、です。私の答えは、「神にゆだねる」です。自分で何とかして解決できるならよいのですが、憂うつな気分をどう解決するか、難題です。私は信仰者ですから、神さまにゆだねることがよい解決かと思います。とすると神さまにゆだねることができることは信仰者の誇りと言えるかも知れません。ゆだねると決めたら、心が少しほっとしました。

 パウロの苦難について紹介します。

コリント二 11:23~27
苦労したことはずっと多く、投獄されたこともずっと多く、鞭打たれたことは比較できないほど多く、死ぬような目に遭ったことも度々でした。
ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。
鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。
しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、
苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。

 パウロのことを考えるなら、眼の手術なんて些細なことに思えます。でも私は、か弱い信仰者なのです。

寒さの中、咲いています 散歩道