私は洗礼を受けて間もなく神学校に行きました。4年間学校の学びをして福音宣教者として教会に派遣されました。信徒として4年間の信仰生活、牧師になってから長い間、「信仰者の成長」という言葉を聞いたことがほとんどありませんでした。そのことに気づいたのは、超教派の集会に出たことがきっかけだと思います。
考えてみれば洗礼を受け信仰者となり、信仰者の歩みを始めるわけですから、信仰者の成長を考えることは自然です。このことに気づいた時から、私は信仰者の成長に関心をもち、どうしたらよいのか考え、機会を捕らえては学び、教会で実践するようにしました。
私が仕えたのは日本基督教団の教会で、地域ごとに教会の交わりがあり、そこでは信徒修養会、役員研修会、教会学校教師の研修会などが行われます。それらの会は開会礼拝によって始められるので、地域の教会の牧師の説教を聞く機会ともなります。そのような時でも、信仰者の成長について説教を聞いた覚えはありません。信仰者の成長って大事だよな、という問題意識を持ってからも、信仰者の成長について語られるのを聞いた覚えはありません。なぜなのか、と思います。
なぜなのか、私なりに思うことがあります。ひとつには継承という課題です。教会にはいろいろな年代の信仰者がいます。若い信仰者にとっては、信仰生活の長い人たちの信仰生活が、ある意味模範となります。先輩の信仰のあり方に学ぶべき点があれば学びます。こうして信仰者の有り様というものが継承されていきます。何を信じるのか、どのように信仰に生きるのか、継承されるという面があると思います。しかし現実に信仰の成長ということが語られていなかったという現実は、信仰者は成長するものだという理解、実践が継承されていないからではないかと考えます。
私自身が信仰者の成長を大切に考えたのは、キリスト者はキリストを目指すという聖書の教えです。
コリント一 11:1
わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい。
目に見えないキリストではなく私に倣えば、あなたがたもキリストに倣う者になるんですよ、とパウロは語ります。
そしてキリスト者が神の国に迎えられた時、完全にキリストに似た者に変えられ、栄光の姿に変えられると聖書が語っていることです。信仰者の成長の歩みのゴールが神の国だということです。
フィリピ 3:20~21
しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。
キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです。ヨハネ一 3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
キリスト者がキリストに向かって成長してこそ、神の国に迎えられた時の感激が大きいのだと想像します。ですから信仰者の成長は大切な課題だと思います。
