クリスチャンが元気になる holalaのブログ

隠退牧師 holala によるブログ

神の戒めを守る動機

 キリスト者はなぜ、神の戒めを守ろうとするのでしょうか。私は救いへの感謝の応答として、神の教え、戒めに従うことを大切にしています。私にとって神の戒めを守ることは感謝の応答であって、信仰者の義務として守ることではありません。もし守れなくても自分を責めたり、自分を罪深いと責めたりせず、次は守れるように聖霊の助けを求めたいと思います。

 パウロはロマ書の3章で、律法は私たちに罪の自覚を与えるために存在していると書いています。

ローマ 3:20
なぜなら、律法を実行することによっては、だれ一人神の前で義とされないからです。律法によっては、罪の自覚しか生じないのです。

 信仰者は律法を守る努力をします。すると守れない自分の罪を知り、その自分を責めるということが生じます。しかしパウロは、私たちは信仰によって義とされるのであって、律法を守ることによって義とされるのではないこと、それ故、救われるために律法を守らなければならないと考える必要のないことを指摘します。

ローマ 3:28
なぜなら、わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。

 では信仰者は律法(神の戒め、教え)を守らなくていいのかというなら、守るべきです。問題は動機です。なぜ守るのか、です。救われるために守ると考える必要はありません。信仰によって救われるのですから。ですからキリスト者は救いを感謝し、感謝の応答として神の戒めを守ると私は考えます。また神の戒めは、私たちを祝福するためにあると考えます。ですから神の戒めを守るのは、あくまでも感謝の応答であって、義務感からではありません。感謝の応答として喜んで守る、つまり自由な心で守る、これが信仰者の道だと私は考えます。

 信仰者は神の戒めを守りたくても守れないことがあります。守れない理由として自分の中にある罪を自覚することもあります。でも守れない自分を責める必要はなく、自分を罪深いと思う必要もありません。必要なのは、守る力が自分にないことを認め、守らせてくださいと神さまに祈ることです。聖霊の助けを得ることです。あるいは守りたくないと思う心を打ち砕いてくださいと神に祈ることが大切だと考えます。もし自分を罪深いと責めると守る努力をしなくなります。守る努力をしなくて済みます。

 神の戒め、教えは、感謝の応答として従いたいと願います。少しでも従うことができたら感謝します。少しずつ、従うことができるようになることを喜びたいです。

フィリピ 3:16
いずれにせよ、わたしたちは到達したところに基づいて進むべきです。

馬見丘陵公園にて