私は1981年4月に牧師として教会に赴任しました。礼拝出席10数名の小さな教会で高齢者が多かったです。それ故、教会の将来に危機感を覚え、いかにしたら伝道できるのか、という問題意識を持ちました。最初は礼拝説教で精一杯でした。8年過ぎて別の教会に赴任しました。あるきっかけがあり、超教派の集会に参加し、伝道について学びました。そこで教えられたことが二つあります。一人の信仰者が聖書を神の言葉として読み、御言葉によって生きる生活をすること。今ひとつは、聖書を読み御言葉に生きる生活を分かち合うことです。それを具体的に行うのは、小グループにおいてです。
私が属している日本基督教団の諸教会では、伝統的に家庭集会が行われていますが、これは小グループの集会と位置づけられます。或いは教会で聖書研究祈祷会と呼ばれる集会もありますが、これもまた小グループの集会と位置づけられます。しかし私が信徒のときの家庭集会は、牧師が聖書について話をし、質疑応答をするという聖書の学びの会で、分かち合いはありませんでした。私が牧師となって行った聖書研究祈祷会も牧師の話と質疑応答という形でした。
超教派の集会に参加して、聖書研究祈祷会、家庭集会のあり方について考えさせられました。それまでの集会では、参加する信徒は受け身なのです。牧師の話を聞いて、質疑応答して集会が終わります。集会の内容は時間の経過とともに忘れてしまうことがおおいのです。
私が最後に牧会した教会に赴任した時、聖書の学びを工夫しました。牧師からの説明は行わず、質問を出し、参加者に聖書を読んで考えてもらい、その答えを分かち合うような会を心がけました。参加者は受け身の姿勢から自分で聖書を読み、質問を考え、自分の思いを語る積極的な姿勢に変化しました。他の参加者の答えを聞き、聖書を学ぶ喜びが与えられました。
さらにはディボーションという聖書の読み方、生活に結びつく読み方を学ぶ機会を設けました。ディボーションをすると積極的に、聖書を読む姿勢がつくられます。そうすると分かち合いが深まり、相互に影響し合う、信仰者の交わりが深まりました。
コロサイ 3:16~17
キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、諭し合い、詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。
この聖句を体験するかのような集会を行うことができて感謝でした。私が経験した家庭集会、聖書研究祈祷会は、一部の教会員しか参加しません。ですから教会全体に広がることはありませんでした。私は隠退のために教会を辞任しました。次に赴任する牧師先生が、どのように集会を運営するのか分かりませんし、私がしたことを受け継いでくれるとは限りません。教会の試みを継承していくことは大切ですが、牧師によって考えがまちまちです。牧師が交代しても教会の働きを継続して積み重ねていくことは大きな課題だと思います。
私としては、伝道への確信が与えられました。このような試みがもっともっと諸教会に広がっていけばいいなと願っています。
この世界の現実は、分断化です。そして戦争、争いが顕著です。平和はどんどん遠のきます。教会の影響力、福音の影響力は、どんどん小さくなっています。キリストによる平和はなかなか実現しません。ある意味で悲観的になります。
昨日見たテレビドラマ『相棒』のエンディング場面でこんな会話がなされていました。
(亀山刑事)「なんか世界がどんどん壊れていって、でも自分には何もできない、そんな気がするんです」。
(杉下右京刑事)「僕たちはやれることをやる。それだけです。それが希望につながります」。
「僕たちはやれることをやる」。神さまが歴史を導かれます。私は牧師として、ある時期、ある場所で福音を伝える使命を神から与えられ、それを果たせばいい。共感しました。
