イエス・キリストは私たちの罪の贖いのために十字架で死なれたことを信じるのは、キリスト教信仰の根本です。しかし考えてみると、これはありえない話しということができます。
罪を犯した人は罪を赦してもらうために、罪の贖いのために、神にいけにえをささげます。そのことが旧約聖書の律法で定められています。罪を犯した者が罪のあがないのためにいけにえをささげて赦してもらいます。
イエスは罪を贖うためのいけにえとして十字架の上で死にました。処刑されて死にました。このイエスの死は、罪の贖いのための死であり、イエスは罪の贖いのためのいけにえであると聖書は書いています。イエスといういけにえをさし出したのは、神であると聖書に書かれています。つまり罪の赦しを与える側の神が、赦しのためのいけにえをさし出したというのです。論理的におかしなことです。理屈に合わないのです。理屈に合わないことを信じて救われるなんて、ありえない、ありえない。
しかも、イエスが罪を贖ういけにえであると信じれば赦される、それは神の恵みだというのです。すると神の恵みを得るために罪を犯そう、なんて言う人が出てきそうです。使徒パウロは、そのようなことを言う人に対して、私たちは罪の中に生きるものではない、と反論をしています。
ローマ 6:1~2
では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。
聖書は、神がイエスを罪の贖いとして提供したことを信じるなら、その人は、つまり罪を犯してきた人は、罪赦されるどころか、神の前に義(正しい者)と認められるというのです。人間の常識からすれば、ありえないことをキリスト者は信じていることになります。
ローマ 3:24
ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
