マタイ 5:13~14
「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。
主イエスは山上の説教で、「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と語りました。これは聖書を読む私たちにも語りかけられている主の言葉と理解していいと思います。すると「あなたは地の塩である。世の光である」と私たちは主イエスから語りかけられていることになります。
主イエスから「あなたは地の塩である。あなたは世の光である」と語りかけられたとして、あなたはこれをどう受けとめるのでしょうか。
Aさんは「主よ、よく言ってくださいました。私のことをよく分かってくださり、感謝です」と言うかも知れません。信仰者としての自分の生き様を認めてもらえたと喜んでの発言です。
Bさんは「主よ、私が地の塩、世の光だなんて、とんでもないことです。私は取るに足りない信仰者であって、そんな風に言われるなんて間違っています。私がそんな風に呼ばれるに値しないことは、私をよくご覧になれば分かることではありませんか」。
Cさんは「主よ、分かりました。私はそのように呼ばれるに値しない者です。だから地の塩。世の光と呼ばれるにふさわしい者になるようにこれから努力します」。
私は主イエスの言葉をどう受けとめるのでしょうか。
私はAさんのような発言はできません。自分が世の光であり、地の塩であると自信をもって誇らしく発言することはできません。
しかしBさんのように「そんな風に言われるなんて間違っています」と主イエスの言葉を否定することはしません。自分が世の光、地の塩と呼ばれるにふさわしいような者とは思いませんが、主イエスの言葉を否定することはしません。主イエスの言葉を否定するというのは信仰者としてどうなのでしょうか。
さらに私はCさんのような発言はしません。Cさんの発言も主イエスの言葉を否定しています。これから私は努力して、世の光、地の塩を呼ばれるにふさわしい者になるというのですから、「あなたは~である」と言われたことを否定しています。しかし信仰者としてとても良い発言をしているように見えます。努力する、というのですから、すばらしいです。でも私はCさんが努力をしたらどうなるか知っています。「主よ、私は努力しましたが、世の光、地の塩にはなれませんでした」と語るに違いありません。
私たちキリスト者が世の光、地の塩である、それはありえません。キリスト者といえども私たちは罪を犯しますし、神さまのことより自分のことを優先して生きる存在ですから、世の光、地の塩と呼ばれるような存在ではありません。ですから、私たちが「地の塩である、世の光である」、これはありえない、ありえないのです。
では私はどう主の言葉を聞くのでしょうか。「主よ、あなたが私のことを地の塩である、世の光であると言ってくださることを感謝します。そうです、私は地の塩であり、世の光であることを信じます。あなたがそう言ってくださるのですから。これから少しでも地の塩として、世の光としてふさわしい歩みをすることにします。主よ、導いてください」。
キリスト者は、ありえないことを信じるのです。それを信じて生きるのです。言うまでもありませんが、そのありえないことは、神の恵みです。だから信じます。
