使徒パウロは、神の前に誰が正しい人なのかという問いについて語りました。異邦人は信仰によって義とされました。しかしイスラエルの民は、律法を守ることによって神の前に正しい者になろうとしましたが失敗したと語ります。それはイスラエルの民がつまずきの石につまずいたからだと指摘します。
つまずきとは何か。人間は、自分の理解を超えるものは受け入れられないし、受け入れない、それがつまずいているということだとパウロが語っているように見えます。
そこでキリスト者も、実はつまずいているということがあるのではないか、と考えました。確かにキリスト者は、イエス・キリストの十字架の死が罪を贖うための死であると信じることによって、神の前に義を得ました。
しかしキリスト者もまた、自分の理解を超えることは信じないという面があるのではないかというのが私の問題意識です。キリスト者もつまずいているのではないかという問題意識を私は持ちます。次の聖句をキリスト者であるあなたは信じ、その聖句に沿った歩みをしているでしょうか。
1.罪からの解放
ローマ 6:6~7
わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています。死んだ者は、罪から解放されています。ローマ 6:17~18
しかし、神に感謝します。あなたがたは、かつては罪の奴隷でしたが、今は伝えられた教えの規範を受け入れ、それに心から従うようになり、罪から解放され、義に仕えるようになりました。
2.聖なる者を目指す
ペトロ一 1:15~16
召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。「あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである」と書いてあるからです。コリント二 7:1
愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのですから、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう。
3.主に似た者になる
コリント二 3:18
わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。ヨハネ一 3:2
愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。
聖書は、キリスト者は罪から解放され、聖なる者を目指して歩み、御子イエス・キリストに似た者になっていく、それが救われた者の歩みだと教えています。このような歩みを目指していないなら、自分の理解を超える神の救いを受け入れていないことになり、つまずいていることになるのではないでしょうか。
神によって与えられている救いの可能性を受け入れず、それを狭めているとすれば、それはつまずいているのではないでしょうか。
