聖書は、イエス・キリストによる罪の贖いを教えています。イエス・キリストは、罪の贖いのためのいけにえとして御自分を献げました。それは神の御心でした。そこで人はイエス・キリストの贖いの死を信じることにより罪が赦され、義とされると教えられます。
ローマ 3:23~24
人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。
ここには一つ問題点がありました。普通、罪を犯した人が自分の罪を赦してもらうためにいけにえをささげます。しかしイエス・キリストといういけにえは、神が差しだしたいけにえです。つまり罪を赦す側の神が赦しのためのいけにえをさし出すのは理屈に合いません。ありえない話しです。でも神はそのようにしたのです。
罪を赦してもらうためには、神の教えを一生懸命守りなさいと神が言うなら、理解できます。神はイエス・キリストを信じるだけで、罪を赦すと言われました。理屈に合わないことをなぜ神はなさったのでしょうか。
恵みによる赦しは誤解を招く可能性があります。使徒パウロは、ローマの信徒への手紙の6章で、「恵みを受け取るために罪を犯そう」と語る人のいることを指摘しています。キリスト者なら、このようなことは言わないと思います。でも罪を犯してしまった、でも赦してもらえる、感謝ですと語りながら、罪を犯さないようにする努力をあまりしない人がいます。罪を犯すのは仕方がないんだ、でも赦してもらえて感謝だと一見、信仰的ですが、甘えているように見えます。
ではなぜ、神は恵みによる赦しを与えることにしたのでしょうか。端的に言えば、人が神の教えを守ることができるようになるためです。
旧約聖書に目を留めると、神はイスラエルの民に律法を与えました。神は律法を守るように命じました。でもイスラエルの民は守ることができませんでした。預言者は、民に悔い改めて神に立ち帰り、神に従うように説教しましたが、民はなかなか従いませんでした。その結果、イスラエルの国は滅びてしまいました。イスラエルの歴史は、神の律法、神の教えを守りなさいと命じても、民は守れない、守らないことを明らかにしています。
神を信じる者が神の教えを守るにはどうしたらよいのでしょうか。神の恵みだけがそれを可能にします。イエス・キリストを信じる人は、恵みとして聖霊の賜物を与えられます。聖霊の導きにより、キリスト者は神さまを愛し、神さまの御心を大切にするようになり、神の教えに従うことができるようになります。
キリスト者は、イエス・キリストを信じ、義とされて神との交わりに生きるように招かれます。これも恵みです。神との交わりに生きるので、神の御心を大切にするように導かれます。すると神の御心に喜んで従う人へ変えられていき、神の教えに生きるようになります。恵みだけがこのことを可能にします。
恵みに甘えて罪赦されることを感謝しますが、それ以上のことを求めない人もいます。しかし、神の恵みはとても豊かです。聖霊の導きを信仰者は与えられ、聖書を神の言葉と信じ、神の言葉によって生きることを喜びとするようになります。神を愛し、神の教えに喜んで従う信仰を与えられます。これは神の恵みの働きです。神の恵みだけが信仰者を成長させます。
神の恵みにより人を生かす、それが神がそなえらえた救いの道です。
ローマ 6:14
なぜなら、罪は、もはや、あなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下ではなく、恵みの下にいるのです。
